8話前半
俺、篠山には『神の眼』がある。
被写体の真実を射抜くこの眼にかかれば、どんな隠し事も見逃すことはない。
だからこそ、俺はずっと疑問に思っていたのだ。
「……そういえば悠馬。お前、本当にピアノ弾けんの?」
音楽の授業中。後方の席に固まった俺たち『はみだしカルテット』は、音楽教師の退屈な座学をBGMに、教科書を立てて壁を作りながら小声で駄弁っていた。
俺の鋭い指摘に、真須と氷室も「確かに」と深く頷く。
「前にお前、河原でギター弾いてたよな。俺より少しだけ指使いがマシだった気がするが……」
氷室が腕を組んで過去の記憶を引っ張り出す。
(いや、お前そもそもピックの持ち方すら分かってないエアギター野郎じゃねぇか。どの口が言ってんだよ)
俺は心の中で氷室の底知れぬ見栄っ張り具合にツッコミを入れつつ、話を本筋に戻した。
「悠馬、お前よく『俺は元天才だから』みたいなオーラ出してるけど、俺たちはお前が実際にピアノを弾いてる姿を、ただの一度も見たことがないからな。ぶっちゃけ、どれぐらいできんの?」
俺たちの疑惑の視線に対し、真須がニカッと笑って悠馬の肩をバンバンと叩いた。
「がはは! なに言ってんだ篠山! あの悠馬さんだぞ? さぞかし凄い演奏をしてくれるに決まってるだろうが! 胸が張り裂けるほどの情熱的なビートを刻んでくれるはずだ! ……まぁ? まさかとは思うが、自分を大きく見せるためのただのハッタリで、実は指一本で『ねこふんじゃった』しか弾けない……なんてオチじゃないよな?」
絶妙にプライドをくすぐりつつ煽り倒す真須。
だが、悠馬はピクッとも動揺せず、窓の外を見つめたままフッと鼻で笑い、余裕の態度を崩さなかった。
「フッ……お前らみたいな音楽の『お』の字も知らない素人に、俺の芸術は理解できないさ。それに、俺は無闇に人前で才能をひけらかすような、安っぽい趣味はないんでね」
「うわ、逃げた」
「完全に怪しいぜ」
俺たちがニヤニヤと悠馬をイジっていると、不意に教壇の方から声が上がった。
「えー、ではこの曲の伴奏部分ですが……白雪さん、ちょっとピアノで弾いてみてくれないかな?」
音楽教師からの突然の指名だった。
とはいえ、ここは音楽室。常に学年トップの成績を誇り、スポーツ万能、才色兼備の完璧超人であり、音楽室をよく借りてピアノを弾いている彼女なら、当然のように弾きこなすだろうと、教師もクラスメイトも微塵も疑っていなかった。
クラス全員の視線が、窓際の席に座る白雪に集まる。
だが、その美しい顔に、ほんのわずかな戸惑いが走ったのが、俺の『神の眼』にはハッキリと見えた。
「……申し訳ありません、先生」
白雪はスッと立ち上がり、凛とした声で答えた。
「ピアノの経験はそこそこありますが、この曲は今まで一度も弾いたことがありません。皆様の前でお聴かせできるような、完璧な演奏をする自信がありませんので……」
「おや、そうだったのか。別にそこまでのクオリティは求めてないのだが……。完璧主義の白雪さんらしいね。では、誰か代わりに初見で弾ける生徒は……」
教師が困ったように教室を見渡した、その時。
白雪が、くるりと振り向いて悠馬の方を見た。
普段の彼女なら絶対に他人に向けることのない、氷のように冷たい視線ではなく……ほんの少しだけ頼るような、珍しい上目遣いの視線。
「……結城君。あなたなら、弾けるでしょ? もしよければ、私の代わりに弾いてくれないかしら」
「「「!!?」」」
俺、氷室、真須の3人の脳内に、けたたましい非常警報が鳴り響いた。
おい待て悠馬。お前、たった数十秒前に「人前でひけらかす趣味はない」って言ったよな? な? 絶対断るよな?
「……やれやれ。白雪さんの頼みとあっちゃあ、仕方ないな」
悠馬は、まるでハリウッドスターがレッドカーペットを歩くかのような、クソほどキメた足取りでクネクネしながら席を立ち上がった。
おい、なんだそのドヤ顔は。さっきまでの「安っぽい趣味はない」とかいう余裕ぶった態度はどこに行った。光の速さで前言撤回しやがって。
悠馬がグランドピアノの前に座り、物憂げな表情をしながら鍵盤にスッと指を置く。「久しぶりだな……」とか言ってるが正直誰も聞いてない。
次の瞬間――音楽室の空気が、一変した。
流麗なアルペジオ。力強くも繊細なタッチ。
ペダルを踏むタイミングから、指先の滑らかな動きに至るまで。それはただの「授業の伴奏」などというチャチなものではなく、プロのコンサートホールで1万円のチケットを取れるレベルの、圧倒的な演奏だった。
「す、素晴らしい……! なんて感情の乗ったフォルテシモだ!」
音楽教師は両手で顔を覆い、感極まってハンカチで涙を拭っている。
「嘘、結城くんってあんなに弾けるの!?」
「えっ、あんた知らないの!? 結城くんって、元々すっごい有名なジュニアピアニストだったんだよ! 全国大会レベルじゃなくて世界レベルの大会にも出まくってたんだから!」
「マジで!? 普段はあんな気狂いでアホみたいなことばっかやってるのに……めっちゃカッコいいんだけど……!」
「ほんとに!! 普段あんなに狂ってるのに!!」
クラスの女子たちからは、アイドルのライブ会場のような黄色い声援と熱い視線が飛び交っていた。過去の経歴を知る者と、初めてその才能を目の当たりにした者たちの驚きが入り交じり、教室は異様な熱気に包まれている。
そして、俺の『神の眼』は、特等席で見ている女子たちの反応を絶対に逃さなかった。
窓際の席に座る白雪。
普段は誰に対してもクールな彼女が、今は悠馬がピアノを弾く姿を、まるで魔法にかけられたようにうっとりとした表情で見つめている。その瞳は潤み、完全に心を奪われている乙女の顔だった。
さらにその斜め前の席では、高梨さんが腕を組み、「ふふん、どうよ? すごいでしょ?」と言わんばかりの、なぜか超絶誇らしげなドヤ顔でウンウンと頷いている。
(く、くそっ……!! なんで高梨さんまで自慢げなんだよ!!)
俺たち3人は、最高峰の美少女たちからの熱視線を一身に浴びる悠馬を見て、ギリィィッと奥歯を噛み締めた。
ジャーン、と最後の美しい和音が響き渡り、演奏が終わる。
割れんばかりの拍手喝采の中、悠馬はゆっくりと立ち上がり、フッとアンニュイな手つきで前髪を払うと、俺たちカルテットの席へと悠然と戻ってきた。
そして、この世の全ての優越感を煮詰めたような、最高に腹の立つドヤ顔で言い放ったのだ。
「あれw? 俺、なんかやっちゃいましたw?」
ピキッ。
俺と真須と氷室の脳内で、同時に太い血管がブチ切れる音がした。
(この、クソ童貞チビ野郎がァァァァァッ!! なにが「やっちゃいましたw?」だ、全部計算づくだろうが!!)
(調子に乗りやがってこのチビ野郎ォォォ!! 大胸筋でそのドヤ顔をプレスしてやりたいッ!!)
(フッ……地獄の業火に焼かれろ、イキリ中二病でバイク下手なチビが……!!)
俺たちは机の下で拳を固く握りしめ、嫉妬の炎でそのドヤ顔を今すぐ焼き尽くしてやりたい衝動を必死に堪えた。
――これが、金欠に喘ぐ俺たち『はみだしカルテット(残りの3人)』が、悠馬の鼻を明かし、あいつ以上のステータスを手に入れるために……高時給バイトという名の地獄へ足を踏み入れるキッカケになった出来事である。
「悠馬ピピ、まじウケる! てかピアノ超ヤバかったんですけどー! 今度ウチらにも教えてよー! アタシ、キーボード担当なんだけど全然弾けなくてさー」
「それなー! アタシら今もバンドやってるんだけど、マジで尊敬するわー!」
放課後の教室。
あの一件以来、悠馬の周りにはなぜか、クラスでもカースト上位に位置する軽音部のギャル三人組が群がっていた。
笹川と指原という派手な二人が、悠馬の机に身を乗り出してキャーキャーと騒いでいる。そしてその後ろには、普段は単語でしか喋らない、気だるげな黒髪ショートのギャル――佐須又さんの姿があった。椋鳥のような、どこか無気力でアンニュイな空気をまとっている。
佐須又は、悠馬をジッと見つめると、ボソリと口を開いた。
「ダニのピアノ……好き。よかったよ」
「「「な、なんだってーーッ!!?」」」
教室のギャラリーたち(主に俺たち)がどよめいた。
「おいマジかよ! あの『無感情単語ギャル』こと佐須又さんが、あのチビ野郎を褒めたぞ!?」
「くっ、俺だって、俺だって才能ある、もん……!」
「無理すんな……」
クラスに男子が俺たち4人しかいないため、周囲のざわめきは必然的に女子たちの黄色い声援となる。
その中心で、悠馬は「ふっ、お嬢さんたちの心に響いたのなら光栄だぜ」とか抜かして、クソみたいに甘いスマイルを振りまいていた。
「……おい、見たかよアイツの羨ま、だらしない顔」
「あぁ。完全に調子に乗ってやがる。ちょっと授業中ピアノ弾いたぐらいで本当に気持ち悪い。うらやま、不愉快極まりない」
「分かる。一瞬チヤホヤされてるだけであんなにイキっちゃって。まじ羨まし、恥ずかしいわw」
教室の隅で、俺と真須と氷室の『はみだしカルテット(残飯組)』は、ギリィィッと歯を食いしばりながらその光景を睨みつけていた。
だが、俺たちの怒りをさらに加速させたのは、その横で展開されている『別の地獄』だった。
俺の『神の眼』は、教室の前方にいる二人の女子――白雪と高梨さんの様子を克明に捉えていた。
『氷の令嬢』と恐れられる完璧超人の白雪は、悠馬に群がるギャルたちを見て、明らかに機嫌を悪くしていた。手元の高級なシャープペンシルを無意識のうちにボキッとへし折っている。
そして、その横にいる高梨さんも、「ふーん、ずいぶん楽しそうじゃない」と、声のトーンを三段階くらい落とした絶対零度のオーラを放っていた。
「……おいおい。白雪さんに加えて、高梨さんまであんな顔してやがるぞ」
俺が震える声で実況すると、真須と氷室の顔が般若のように歪んだ。
「ふざけんなァァァ! 俺たちだって二頭筋でクルミを割ったり、山で野ウサギを捕まえたり、野草見分けたり、すげぇ特技(サバイバル技術)があるだろうが!! なんでアイツばっかりちやほやされんだよ!」
「そうだ! 俺だって……俺だって、エアギターなら誰にも負けねぇのに……! いつか俺の指先から奏でられるビートと旋律を……! え、上腕二頭筋で胡桃割れるの?」
「いける」
「あんなカスより100倍カッケェぜ。親友。んで、弾けねぇなら黙ってろよ元ヤン」
謎の対抗心と嫉妬の炎を燃やす俺たちだったが、すぐに現実という壁にぶち当たった。
「……だが、何をするにしても俺たちには金がない」
氷室が虚空を見つめてポツリと呟いた。
「あぁ。俺も新しいプロテイン(大容量パック)を買ったばかりでスッカラカンだ」真須も同調する。俺も最近、超望遠レンズを買ってしまって財布が軽い。
「よし、悠馬も誘って、4人でなんか割のいいバイトでも探すか。あいつのあの余裕ぶった顔を見てると無性に腹が立つ」
俺たちは気を取り直し、ギャルたちが去った後の悠馬の席へと向かった。
「おーい悠馬、お前も金欠だろ? 俺たちと一緒にバイト探さねぇ?」
俺が声をかけると、悠馬はフッと前髪を払い、勝ち組の顔でこちらを振り向いた。
「ん? ああ、悪いな。全然気づかなかったわw。俺、土日は結婚式場でピアノ弾くバイトしてるんだわw。時給もかなり良いし、何より新郎新婦やゲストから直接感謝の言葉をもらえる、やりがいのある仕事でね。……お前ら、もしどうしてもって言うなら、俺から直々に、式場の支配人に『ピアノスタッフ』として紹介してやろうかw?」
ニチヤァァッ。
これ以上ないほどの、人を小馬鹿にしたドヤ顔だった。要所に草が生えてる。
俺たちの脳裏に、先ほどの神がかったピアノ演奏が見せつけられたようにフラッシュバックする。あんな化け物みたいな演奏を見せられた後で、同じ式場で「悠馬の紹介のピアノスタッフです」なんて言えるわけがない。「結城君が推薦するなら、どれほど凄い腕前なんだ!」と極限までハードルを上げられ、1ミリも弾けない俺たちが公開処刑される未来しか見えない。
「「「……っ! け、結構ですぅぅぅ!!」」」
俺たちは蜘蛛の子を散らすように、悠馬の席から全力で逃亡した。
「クソッ、あのチビ野郎! 完全に俺たちを見下してやがった!」
「俺よりチビで生意気な癖に、あんな見え透いた才能のひけらかしで女子にキャーキャー言われやがって……! 羨まし…許せねぇ!」
「そうだ! 俺より顔がデカくて足が短いくせにモテるなんて、羨まし……この世の道理に反してやがる! これだから光の世界は腐っているんだ!」
「マッスルが泣いているぜ……! いやまじで羨まし……絶対にアイツより時給の高くて、ステータスの高いバイトを見つけて、俺たちの凄さを証明してやる!」
理不尽な容姿の悪口(僻み)を全力で吐き捨てながら、俺たちは固く誓い合った。




