13
コンクール当日、日曜日。
初夏の爽やかな風を切り裂き、俺の愛車である漆黒のCBR250RRは、会場となる市民ホールの駐輪場へと滑り込んだ。
「ほら、着いたぞ。降りろ」
「……もう、ヘルメットのせいで髪ぺちゃんこになっちゃったじゃない」
後ろのシートから降りた幼馴染の結衣が、文句を言いながら手ぐしでボブカットを整える。
結衣は外したヘルメットの中を少し気にしながら、俺にそれを手渡した。
「ていうか……これ、私の化粧とか香水の匂いがついちゃったかも」
「おっ、マジか。このヘルメット、篠山に高く売れそうだな」
「……ほんとにやめて」
「マジでごめん」
結衣の心底嫌そうな冷たい声色に、俺は即座に謝罪した。
普段は学校で他人のフリを徹底している?されている?俺たちだが、今日は白雪のコンクールということもあり、あのボウリング以降そこそこ話すようになったらしく、俺からのお願いもあって、結衣も応援に来てくれていた。
ちなみに結衣を経由して、ボウリングで(色々な意味で)絆を深めた委員長の栞や、天然たわわの葵にも声をかけており、彼女たちはすでに会場のロビーに着いているらしい。
俺はバイクのミラーで自分の姿をサッと確認した。
今日の俺は、いつものだらしない制服や、無駄にイキったライダースジャケットではない。体にピッタリとフィットした、黒のフォーマルなスーツ姿だ。
バイクに跨るには絶望的に窮屈で乗りにくかったが、これは俺が過去に海外の国際コンクールに出場した際にあつらえた、かなり上等な勝負服である。
……まあ、当時のサイズだというのに、悲しいことに今でもピッタリ着れてしまうのだが。
駐輪場から会場のロビーへと歩き出すと、スーツやドレスアップした参加者たちの姿がチラホラと見え始め、特有のピリッとした緊張感が漂ってくる。
俺がそんな空気を懐かしく感じていると、隣を歩いていた結衣が、ふと立ち止まり、複雑そうな顔をして俺の横顔を見上げた。
「……なに?」
「……いや。なんか、あんたのそのスーツ姿見てたら、昔のこと思い出しちゃって」
結衣はポツリと、昔を懐かしむような口調で呟いた。
「あんた、昔は毎日プレッシャーで死にそうな顔してピアノ弾いてたもんね」
「……」
「私、あんたのコンクール、国内のはもちろん、親に連れられて海外のまで全部見に行ってたんだからね? まぁ、あそこまで身を削って頑張ってたら、嫌でも応援したくなるわよ。あの時のあんた、ほんと辛そうだったし。プレッシャーで毎日泣いてたもんね」
俺は少しバツが悪くなり、視線を逸らした。
「……まあ、そうだな。あの時はマジで、ピアノ以外の記憶がないくらいだったし。結衣には全部付き合ってもらって、今思えば感謝してるよ」
「本当よ。……それに、あんたはメンタル弱くてすぐ泣くくせに、変にプライドだけは高かったから、色んな人に噛み付いて喧嘩売るし。ほんとに手を焼いたんだからね?」
「う、うるせぇ! 昔の黒歴史をこの神聖な会場で蒸し返すな!」
俺が顔を赤くして怒鳴ると、結衣はふふっと小さく笑い、俺から少しだけ視線を外して、モゴモゴと口ごもった。
「……まぁ、でも。今みたいにバイク乗って、あのバカどもと一緒にアホなことして、明るく笑ってる感じの方が……昔よりはちょっとは、カッコいい、かな……ごにょごにょ」
最後の方は蚊の鳴くような声だったが、長年の付き合いで彼女の周波数に慣れきっている俺の耳には、バッチリと届いていた。
(おっ? 今、カッコいいって言ったな!?)
結衣のデレなど、ハレー彗星の接近並みに珍しい。何年に一度拝めるかどうかの奇跡である。
俺は内心のニヤニヤを必死に抑え込み、わざと耳に手を当てて聞き返すフリをした。
「ん? なんだって? 今、バイクのエンジンの余韻で耳がキーンってしてて、よく聞こえなかったわ。もう一回言って?」
「っな、なんでもないわよ!! バカ!!」
結衣は顔をゆでダコのようにボンッと真っ赤にして、持っていた小さめのハンドバッグで俺の肩をバシッと力一杯叩いた。
「いっっっつ!! 中に辞書でも入れてんのか!?」
「もう! ……ねぇ、あんた、まだピアノ好きなの?」
照れ隠しで乱暴になった結衣だったが、すぐに少しだけ真面目なトーンに戻り、俺の目を真っ直ぐに見た。
「ピアノ? ああ、ピアノ自体は好きだよ」
俺は肩をすくめ、スーツのポケットに手を入れた。
「今も親の紹介で、結婚式場の歓談中にBGM弾くバイトさせてもらってるしな。いつも日給1万円なんだけど、昨日は機嫌のいい親族のおじさんから、おひねりで2千円もらっちゃってさ。今の俺の財布の中身、なんと1万2千300円だぜ! まぁ、これが全財産だけどな!」
「……待って。ってことはあんた、元々300円しかなかったのね……。バイクのローンで完全に首回ってないじゃない」
「や、やかましいわ!」
呆れたようにため息をつく結衣に、俺は苦笑しながら続けた。
「まあさ、ピアノは今でも全然好きなんだけど……高校では一旦、鍵盤から距離を置くって決めたんだ。中学時代みたいに、プレッシャーで胃液吐きながら、夜明けまで死に物狂いで弾き続けるような生活は、もうないかな」
「なるほどねー」
結衣は、俺の頭のてっぺんから足の先までを、ジッと品定めするように眺め回し、鼻でふんと笑った。
「寝ずにそんな不健康な生活ばかりしてたから、今になっても身長が伸びなかったんじゃない?」
俺の最大のコンプレックスである「身長」を、無慈悲にえぐり込んでくる一言。
(カチンッ……!!)
俺は、怒りのあまり結衣を見ることもできず、ロビーの壁に向かって、誰に言うでもなく大声で吐き捨てた。
「う、うるせええええ!! 結衣だって毎日アホみたいに寝てたくせに、胸全然育ってないやんけ!! 絶壁!! まな板!! 後ろに乗っても硬すぎて壁と区別付きません〜あれ?結衣?壁?どっちだこれ?」
俺が痛いところを突かれた反撃として、わざと壁の方を向いて暴言を吐いた、次の瞬間。
背後から、地獄の底から響くような声が聞こえた。
「……おい。どこ向いて喋ってんじゃワレ。こっち向けや?」
恐る恐る振り返ると、そこには、首をホラー映画の悪霊のようなあり得ない角度にグキッと捻り、瞳孔の開いた目で俺を睨みつける結衣の姿があった。
(あ、あれ? 人間の首って、そんな方向まで向くんだっけ……!?)
「…………死ぬか? クソチビ」
「す、すんませんっした!!! マジでチョーシ乗ってました!」
結衣の目から一切の光が消え、絶対零度の殺気が俺の喉元に突きつけられた。俺は光の速さでその場に膝をつき、ロビーの絨毯に額を擦り付けて、見事な土下座をキメた。
「……はぁ。本当にあんたはバカね。コンクールの会場で土下座とか恥ずかしいからやめなさい」
結衣は深くため息をつくと、呆れたように俺を見下ろした。
「ほら、栞たちももうすぐいるんだから、行くわよ。……喉渇いたし」
そう言って結衣がロビーの隅にある自動販売機に目を向けたので、俺はすかさず立ち上がり、ポケットから財布を取り出した。
「おっ、待て待て。俺、さっき言った通り全財産から1万2千円引いた小銭、きっちり300円あるし! ここは俺が奢ってやるよ!」
俺は自販機にチャリン、チャリンと硬貨を投入し、100円の安っぽいリンゴジュースのボタンを3回連続で押した。
ガコンッ、ガコンッ、ガコンッ。
3つの缶ジュースが落ちる。
「はい、これ結衣の分。で、こっちが後から来る委員長と、葵ちゃんの分な」
俺は取り出した3本のジュースを、得意げに結衣に手渡した。
結衣はジュースを受け取りながら、キョトンとした顔で俺の手元を見た。
「……あれ? あんたの分は?」
「えっ? 俺は300円しかなかったから、これで全額だけど?」
「…………バカなの?」
結衣は呆れ果てた顔でため息をつくと、自分の財布から100円玉を取り出し、自販機に投入して同じリンゴジュースのボタンを押した。
ガコンッ。
「ほら。しょーがないなぁ。あんたの分は私が奢ってあげるから、ありがたく飲みなさい」
「おっ、マジか! サンキュ!」
俺は結衣から冷たいリンゴジュースを受け取り、プルタブをカシュッと開けた。
冷たいリンゴの甘さが、乾いた喉を潤していく。
「……まあ、今はこれでいいんだよ」
「え?」
「あの『残念なカルテット』の連中とアホなことやって、結衣たちにこうして呆れられながら過ごしてる今の日常も……俺は結構、気に入ってるからさ」
俺がジュースの缶を握りしめながらフッと笑うと、結衣は「あんたも相当な物好きよね」と呆れ口調で言いながらも、少しだけ安心したような、優しい微笑みを浮かべた。
会場のロビーは、時間が経つにつれて徐々に人が増え始めていた。
出番を控えて楽譜を食い入るように見つめる参加者、それを励ます家族や指導者の姿。ピアノ特有の静かな熱気と緊張感が、空間を満たしていく。
その中で、結衣と他愛のない会話を交わす時間は、不思議と俺の心を落ち着かせていた。昔の俺なら、この空気に飲まれて今頃トイレに引きこもっていたかもしれないが、今はただの観客(応援者)だという気楽さもある。
――良い雰囲気になりかけた、まさにその時だった。
『♪〜〜〜!』
スーツのポケットの中で、俺のスマホがけたたましく着信音を鳴らした。
画面を見ると、発信者は『白雪凛』となっている。
「お、白雪からだ。きっともう着いたんだな」
俺は結衣にひらひらと手を上げ、明るい声で電話に出た。
「よお、白雪! 俺と結衣はもう会場に着いてるぞ。委員長と葵ちゃんたちもいるって。今どこに……」
『結城、くん……っ』
スマホのスピーカーから聞こえてきたのは、晴れ舞台を前にした弾むような声ではなく。
今にも泣き崩れそうな、弱々しく震える声だった。
「……白雪? どうした、何かあったのか!?」
俺の声のトーンが急変したことに気づき、隣にいた結衣も心配そうに覗き込んでくる。
『ごめん……っ。電車が、途中で事故で止まっちゃって。車内にずっと閉じ込められてたんだけど、さっき途中の駅で全員降ろされちゃって……っ』
「事故で電車が……!?」
『マズイからタクシーに乗って会場に向かおうと思ったんだけど……私、焦って家を出たから……時間ギリギリで、楽譜、学校の音楽室に置いたままで……っ』
電話越しに、白雪の痛切な嗚咽が漏れた。
『学校に寄ってから向かう予定だったのに……これじゃあ、時間まであと少しなのに……もう、間に合わない……っ、どうしよう……っ!!』
初めてのコンクール。極限の緊張状態の中で起きた、まさかのアクシデントの連続。
自分がどれだけ練習してきたか、どれだけこの日のために努力してきたか、俺は誰よりも知っている。
電話の向こうで、完全にパニックになり、絶望に押しつぶされて泣いている彼女の姿が、はっきりと目に浮かんだ。
(……考えろ。電車は動かない。タクシーを拾おうにも、休日の事故トラブルで駅前は人がごった返していて捕まらないはずだ。しかも、楽譜は学校にある)
俺は、一瞬の躊躇もなく決断した。
「白雪、今降ろされた駅はどこだ?」
『えっ……三つ手前の、東駅だけど……』
「そこで待ってろ!! 動くなよ!!」
俺はスマホを力強く握りしめたまま、結衣に自分の分のリンゴジュースを押し付けた。
「悠馬!? どこ行くの!」
結衣の制止の声が背中に飛んでくる。
「学校で楽譜回収して、俺たちのお姫様を迎えに行ってくる!!」
俺は結衣の言葉を背中で受け流し、ロビーを飛び出した。
外の眩しい初夏の光に向かって全力で駆け出しながら、俺は愛車である漆黒の『CBR250RR』が待つ駐輪場へと、一直線に風を切って走った。




