12
前日の放課後に引き起こされた「セーラー服剥ぎ取り(未遂)事件」の余波は、俺たちの想像を遥かに超えて凄まじかった。
翌日の朝。俺たち特進クラス(英文科)の教室は別棟にあるため、どうしても一般棟の生徒たちとすれ違う通学路を通らなければならないのだが、俺が廊下を歩いているだけで、他学年の先輩や他クラスの女子たちからもヒソヒソと指を指される始末である。
「うわ、見て……昨日の変態だ……」
「やば……近づかないでおこ……」
「聞いた? クラスの女子に全く相手にしてもらえないからって、男を無理やり女装させて『俺の女』とか言ってるらしいよ」
「えっ、何それきもちわるっっっ!!」
針のむしろ、とはまさにこのことだ。
本来なら精神が崩壊して不登校になってもおかしくないレベルの居心地の悪さだが、今日の俺は一味違った。
俺は痛い視線を全身に浴びながらも、あえて堂々と前髪をかき上げ、胸を張って歩いていた。
(フッ……笑わば笑え、愚民ども。今日の放課後は、俺の友達(氷の女王)の晴れ舞台に向けた大事な特訓があるんだ。このくらいの逆風、俺の『大人の余裕』でどうってことねぇよ!)
そうやってニヒルな笑みを浮かべて強がっていると、すれ違った女子たちがビクッと肩を震わせた。
「うわ、なんかあの人ニヤニヤしてる……気持ち悪っ!!!」
「しっ、見ちゃダメ! あの手の手合いは、この罵声すらご褒美として喜んでる可能性あるんだから! 下手に関わったら惚れられるわよ!」
「もう惚れられたらおしまいよ。妊娠させられるまで追いかけてくるわ……。男でも関係ない」
「ひぃっ!!」
ダダダダッ! と女子たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
(……俺のライフはもうゼロよ)
教室に入っても地獄は続いた。
女子たちは俺たちカルテットから絶対領域のごとく「半径1メートル以上の距離」を厳守し、決して近づこうとしない。
さらに前の席からプリントが回ってくる際、前の席の女子はわざわざロッカーから『ゴミ拾い用のトング』を取り出し、俺の机の上に汚物でも捨てるかのようにプリントをバサッと落としてきやがった。
「ペッ……」
「変態、唾にも、興奮する?」
「…………しねぇよ……?」
隣を見れば、あの筋肉ゴリラの真須も、元ヤンの氷室も、元凶のロリコン篠山も、全員完全に魂が抜けたような顔で灰になって死にかけていた。
心の中ではナイアガラの滝のような血の涙を流しながらも、俺は必死にハードボイルドな男を演じきり、なんとか一日を耐え抜いたのだった。
放課後。
誰にも見つからないようにコソコソと特別棟の音楽室へ忍び込むと、そこにはすでにグランドピアノに向かっている白雪の姿があった。
「やっほー白雪。調子はどうだ?」
「あ、結城くん。……その、昨日は大変だったみたいね。変態集団の仲間入り? 再加入? おめでとう」
「おめでとうじゃねぇよ!! 不可抗力だって言っただろ!」
「不可抗力? せっかく葵さんがみんなの誤解を解いて庇ってくれようとしたのに、そのタイミングでセーラー服着せられてたじゃない。……もしかして結城くんって、蔑まれるのが好きなの?」
「好きじゃねーよ! 俺だって貞操と尊厳を守るために必死に戦う被害者だったんだよ!」
俺が涙ながらに訴えると、白雪は「ふふっ、冗談よ」と小さく笑った。
そんな軽口を叩き合いながら、俺はピアノの横に立つ。
今週末、白雪はとある市内のピアノコンクールに出場する。ガチガチのプロを目指すような国際大会ではないが、地域の腕自慢や音大志望者が集う、そこそこレベルの高い大会だ。
ピアノ歴わずか3年ちょっとの彼女が挑むには、かなりの挑戦である。
「じゃあ、とりあえず通して弾いてみてくれ。課題曲でもあるベートーヴェンの『悲愴』第二楽章」
「……うん」
白雪がスッと背筋を伸ばし、鍵盤に指を落とす。
ゆったりとした、あまりにも有名な、美しくも切ない旋律が音楽室に響き渡る。
俺が以前アドバイスしたペダリングと手首の使い方はかなり改善されており、メロディが以前よりもずっと澄んだ音で歌うようになっていた。
だが、曲が中盤に差し掛かったところ。
長調から同主短調(変イ短調)へと転調し、左手の伴奏が三連符の細かいリズムに変わる中間部で、白雪の音が微かに濁り、リズムがわずかにもたついた。
「ストップ」
俺は小さく手を叩いて演奏を止めた。
「だいぶ良くなってる。最初のテーマの歌わせ方は完璧だ。柔らかくて、すごく綺麗な響きが出てたし、感情の乗せ方も前よりずっと自然で聴きやすかった」
「……本当?」
「ああ。でも、今のトリオ(中間部)のところ、少し甘いな」
俺は鍵盤を指差しながら、あえて厳しめに指摘を続ける。
「左手の三連符の伴奏につられて、右手のメロディの打鍵が浅くなってる。あそこ、左右で違うリズムを弾きながら、さらに右手の小指側だけでメロディをしっかり響かせなきゃいけないから、ミスしやすい魔の地帯なんだよ。焦るとどうしても音が濁るし、全体のバランスが崩れる」
「……やっぱり、そうよね」
白雪は悔しそうに小さくため息をつき、自分の指先を見つめた。
「頭では分かってるんだけど……いざ弾くと、どうしても指が焦っちゃって……」
白雪はうつむき、膝の上でギュッと両手を握りしめた。
普段の堂々とした『氷の女王』の面影はない。そこにいるのは、プレッシャーに押しつぶされそうになっている、年相応の不安げな少女だった。
「……とにかく、やるしかないわよね。練習あるのみ、だし……」
自分に言い聞かせるように呟くが、その声は細く、震えている。
「……私、ピアノを本格的に始めてまだ3年ちょっとだから。周りに出る子たちはきっと、小さい頃からずっと英才教育を受けてきたような、すごい子ばかりよね」
「……」
「こんな、初心者でも出られるような規模のコンクールでも……いざ本番になったら、自分が頭が真っ白になって、全然うまく弾けないんじゃないかって……すごく、緊張してて……っ」
白雪の肩が微かに震えていた。
強がって孤高を貫いてきた彼女が、初めて俺にだけ見せてくれた、本音の弱音だった。
俺は黙って彼女の隣にしゃがみ込み、膝の上で固く握りしめられている白雪の両手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
「えっ……」
白雪が驚いて顔を上げる。
至近距離で目が合う。白雪のシャンプーの甘い香りがフワッと漂い、俺の心臓は狂ったように跳ね回っていたが、俺は必死に『大人の男の余裕』の表情を作った。
「大丈夫だ。焦らなくていい」
「結城、くん……?」
「この数週間、お前がどれだけ真剣にあの曲と向き合って、努力してきたか……俺がずっと、一番近くで見てきたからな」
俺は白雪の冷たくなった手を少しだけ強く握り、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。
「絶対にうまくいく。この俺が保証する!」
普段のもやし男からは想像もつかないほど、強気で力強い言葉。
白雪は戸惑うように目を瞬かせた。
「……保証って、そんな……結城くんに言われても……」
(ここで過去の栄光をひけらかすのは、彼女と対等な関係を崩してしまうかもしれない。……でも、不安に押しつぶされそうな今の彼女を支えるには、俺の『覚悟』を伝えるしかない)
俺は小さく息を吸い込み、はっきりと告げた。
「腐っても俺は……『ジョバン国際ピアノコンクール・ジュニア部門』の優勝者だからな」
「…………えっ?」
白雪の目が、これ以上ないほど限界まで見開かれた。
「それって……ポーランドでやってる、あのジョバンコンクールの……!?」
「まあ、ジュニア部門だけどな。あ、あとスイスのジャネーヴ国際のジュニアでも一応、入賞してる」
「えええええええええッ!?」
白雪が音楽室の窓ガラスが震えるほどの、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
ピアノを少しでもかじった人間なら、私でも聞いたことがある。その賞の名前の重みがどれほどのものか、嫌でも理解できるはずだ。
「な、なんでそんな世界レベルの天才が……あんな野草とかハトの肉食べてるサバイバル男とか、虚言癖のあるヤバい中二病とか、ロリコンカメラマンと一緒に、セーラー服着て床を這いずり回ってるのよぉぉぉ!!」
「俺の黒歴史をフルコースで全員分蒸し返すな!!」
情緒がめちゃくちゃになった白雪がパニックを起こす。俺は苦笑しながら、包み込んでいた彼女の手をゆっくりと離した。
「ご、ゴホン。ま、まぁ、ほんとに色々あって、今はちょっと鍵盤から距離を置いたただのモヤシ野郎だけどさ」
「色々が気になりすぎるわよ……」
俺は立ち上がり、前髪をフッと払って、とびきりのドヤ顔をキメてみせた。
「でも、どんな形であれ、世界一を取ったことある男が保証するんだ。『お前の悲愴は素晴らしい』ってな。……悲愴なら明日コンクールに来る誰よりも上手い自信はある。そんな俺が保証するんだ。これ以上、確かな保証はないだろ?」
俺の言葉に、白雪はしばらく呆然と俺の顔を見つめていた。
やがて、彼女の瞳から不安の曇りがスッと晴れていくのが分かった。
「……ふふっ」
白雪は、目尻に少しだけ涙を浮かべながら、ため息をつくように笑った。
「……本当に、結城くんって人は……ずるいわね。そんなこと言われたら、もう不安になることすらできなくなっちゃうじゃない」
「ははっ、だろ? 俺の圧倒的な才能に感謝しな」
すると、白雪は少しだけ顔を赤らめて、そっぽを向いてボソッと呟いた。
「……教室でもそうしてれば、かっこいいのに」
「えっ? マジ? もっかい言って!!」
「……うるさいっ!!」
照れ隠しで怒鳴りながらも、白雪はクスクスと小さく笑い声をこぼした。
憑き物が落ちたような、柔らかくて美しい、最高に魅力的な笑顔。
(あぁ、クソ……。昨日どれだけクラスの女子から社会的に抹殺されようが、この笑顔一つ見られただけで、俺の人生は完全にお釣りがくるぜ……!)
俺は気合を入れ直すように、パンッと軽く手を叩いた。
「よし! リラックスできたら練習再開だ。あの中間部の後、第一主題が戻ってくるところあるだろ? あの部分は曲の中で1番の見せ所なんだ。だから、もっと力強く行こう! 感情表現をしっかりして、自分の想いを全部鍵盤に叩きつけるつもりで弾け!」
「うん……!」
「まずはリズムの取り方からもう一回おさらいするぞ。俺が左手弾くから、白雪は右手だけ集中して歌わせてみて」
「はいっ! よろしくお願いします、先生!」
(……っ!! やばい、好き……!! 普段はツンツンしてる氷の女王に『先生』って呼ばれるの、なんかめちゃくちゃ興奮するぞ……!)
内心のデレデレな変態性を必死に隠し、俺は彼女の隣に腰を下ろした。
夕陽が差し込む音楽室。
他クラスの女子たちからの変態の烙印なんて、今の俺にはどうでもよかった。
俺と白雪は、週末の晴れ舞台に向けて、二人だけの特別な時間を、美しい音に乗せて紡ぎ続けていったのだった。




