第3話 森の脅威
振り向くと、巨大なシカ、いやエルクと言われている生物がたたずんでいた。おそらく、体長二、三メートルはある。それに、頭頂部には歴戦の証と言わんばかりの、傷だらけでいて、こちらを圧倒する巨大な角が生えている。
逃げなくては。シズクの方へ向かおうとするが足が動かない。エルクは再び、甲高い声を上げている。巨体のどこからそんな声出しているんだ。そして、獲物を狙う狩人のように、こちらに向かって走り出した。
「ラック、早く逃げて!」シズクは前方から叫んだ。
僕は本当についていない。精霊を操れるシズクなら、おそらくエルクを撃退できただろう。しかし、位置が悪かった。シズクとエルクの間に僕がいるせいで、精霊を出すと僕を巻き込んでしまう。
敵を押しつぶすような巨体で迫ってくるエルクを見て、僕は観念した。恐ろしいほどの存在感。もう駄目だ。逃げられない。
だから、立ち向かうことにした。
先ほどシズクが言っていたことを思い出す。イメージ。強いイメージ。この圧倒的存在を撃退する力。両手をエルクに向ける。もうやけくそだ。
僕を串刺しにする勢いで、巨大な角が向かってくる。もう衝突するといったところで、両手に電流が走ったような痛みを感じた。すると、その瞬間エルクの右角が、森に響くような大きな音をたてて弾け、そのおかげで間一髪のところで直撃を避けられた。
僕の真横をすり抜けていったエルクは、角を破壊された衝撃で我を取り戻したのか、何事もなかったように、森の奥に帰っていった。
「ラック、無事? ケガは? 痛いとこない?」シズクが急いで駆けつけて、心配そうに尋ねる。
「ギリギリのところで避けられたから大丈夫。ちょっと、転んで擦りむいただけ」
僕はまだドキドキしている鼓動を鎮めるよう努めて言う。
「死んじゃうかと思ったよ! 何で逃げなかったの!」
僕の両肩をがっしり掴みながら、シズクは泣きそうな声で尋ねた。
「足が動かなくって」
「何それ? すごいのかヘタレなのかどっちなの?」
すごく心外なコメントだったが、それどころではないので黙っておく。
「でも、無事で良かった。……ところで、さっきのって?」シズクが不安そうに聞いた。
「わからないんだ。精霊を出そうと必死で、両手に意識を集中させたんだけど何も出なかった。代わりに手に痛みがあって、その瞬間、角を破壊してた」
今まで修行をしてきて何も成果が出なかった。しかし、自分の身に初めて危機が迫ったことで、何らかの力が出せたようだ。本当なら喜んでもいいのかもしれないけれど。
「……何だか怖いよ。エルクの頑丈そうな角を、あっさり破壊するような力なんて」
僕が望んだのはそんな力ではない。誰かを守ることができるような力。シズクやオリバーを助けることができる力だ。
うなだれながら話す僕の様子を見て、シズクは冷静さを取り戻し、「とりあえず、家に帰ってお父さんに話してみよう」と言って、僕たちは家に向かって歩き始めた。
帰り道、辺りは暗くなり始めており、どことなく空気も重苦しい。まるで、森自体が僕を拒絶し始めたようだった。
家に着くころには日が沈み、シズクは家に着くまで僕のことを気遣ってか話しかけてこなかった。
ドアを開けると、料理のおいしそうな香りが鼻を刺激した。こんな時でも人間はおなかが空く。
「お帰り! 今日はラックの好きな煮込みハンバーグだぞ!」
こちらの事情を知らないオリバーはハイテンションだった。しかし、僕はともかく、珍しく元気がないシズクを見ると、何かを察したのか、「何かあったのか」と尋ねてきた。
「実は……」
今日の出来事を話し終えると、オリバーはテーブルの上で両手を組んで考え込み、しばらくして重い口を開いた。
「……破壊する力か。ラック、その力はとても危険なものだ。それはわかるな」
「はい」
「誰かを傷つけたり、おまえ自身をも傷つけるかもしれん」
僕は自分の両手を見た。この手が誰かを傷つける。それは嫌だ。
「だから、辛いだろうが……」
「わかっています。僕はもう力を使いません。精霊を操る修行も諦めます」
僕がそう言うと、オリバーはとてもつらそうな顔をした。その気持ちだけで十分だ。今までの修行はそれだけで報われる。しかし、シズクの考えは違ったようだ。
「……諦める? なんで諦めないといけないの? ラックはそれでいいの?」
「いいんだ。僕は誰かを傷つけたくない」
「でも、今までずっと努力してきたのに。それなのに……」
シズクは涙を流しながら、そう言ってくれた。
「大丈夫。精霊を操れなくたってできることはある。それよりおなか空いたよ。ごはんにしよう」
シズクは納得していなかったが、僕は強引に話を終わらせた。これでいいんだ。一番大切なことは、自分のために涙を流してくれる人を傷つけないことなんだから。
その日の夕食時、いつもより僕は口数が多かった。たわいもないことを、よりおおげさに愉快そうに話し続けた。シズクとオリバーはいつもと何も変わらない、笑顔を浮かべて話を聞いてくれる。そのことが何より、今の僕にはありがたかった。
食後、僕は自分のベッドの上で、今後について考えていた。今までは修行をして、自分も精霊使いになることを目標としてきた。しかし、今日のように力が暴発し、誰かを傷つけないとも限らない。悔しい気持ちでいっぱいだったが、大事になる前に気づけて良かった。
仕事は精霊使いだけではない。この国は自然が豊かで作物が育ちやすく、農業が盛んだ。森林が多いので、林業に従事している者もいる。自然と共に生きる暮らし、それも悪くないように思う。そういえば、この国には歴史書を管理する仕事もあると言っていたっけ。
ベッドから立ち上がり、居間に向かう。オリバーに話を聞いてみよう。
居間のテーブルでオリバーは手紙を読んでいた。
「すみません、少しお話があるんですが」
声をかけると、オリバーは視線を手紙から僕に移した。
「ああ、どうした? 私にできることなら何でもするよ」
「歴史書を管理する仕事について、話を聞きたいんですが」
「歴史管理官のことか。私もそこまでは詳しくないんだが」そう言うと、オリバーは向かいの席を指して、座るよう促した。
「歴史管理官の仕事は、ここ木の国や、周辺の国についての歴史書を管理することだ。歴史というのは人類が生きてきた証、そこには学ぶべき点がたくさんある。人類が成した偉業、恥ずべき汚点。歴史書にはそれらが記されている。歴史管理官はその守護者ってところだな」
守護者か。精霊使いになれなかった僕だけど、そんな道もあるのかもしれないと興味を持った。
「オリバーさん、どうやったら歴史管理官になれますか?」
オリバーはううんと唸り、「国立の図書館に詳しい書物があるかもしれない」とつぶやいた。そうとわかれば善は急げだ。
「わかりました。明日、早速行ってみます」僕は席から立ち上がり、威勢よく言った。
オリバーは僕を見て、少しほっとしたように見えた。目標を失った僕のことを、心配してくれていたのだろう。
部屋に戻ろうとしかけて、彼が読んでいた手紙が気になった。
「ところで、さっき読んでいた手紙は誰からだったんですか?」
すると、緩んでいたオリバーの表情が少し引き締まった気がした。
「これか。……ローレルからだ。ちょっとした近況報告だよ」
そう言うと、彼はそれ以上、何も話す気がなさそうだった。鉄の国の守護者であるローレルからの手紙を、あまり口外したくないのだろう。僕は無理に聞くことはせずに、部屋に戻ることにした。
翌朝、僕は朝食を済ませると早速図書館に向かうことにした。のろのろと朝食のパンを食べながら、シズクが話しかけてきた。
「早いね。もう出かけるの?」
「ちょっと図書館で調べたいことがあって」
「ふうん。私も行こうかな?」
見たところ、パジャマ姿で髪はあちこちにはねている。朝ごはんもまだ食べているみたいだし。
「今日は一人で行くよ。帰ってきたら、また話すから」
「そう。じゃあ、帰ってきたら話聞かせてね」
「うん、了解」
いつものように家を出るときに、「いってらっしゃい」と聞こえてきた。僕も「いってきます」と答えて、後ろを振り返った。シズクはパンに塗ったジャムをこぼしたのか、テーブルの上には赤い染みができていた




