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ある町  作者: にぼし
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10/11

壁際の男

 日付が変わってすぐ、女は郊外にあるアパートからおぼつかない足取りで出てきた。いつもの散歩道をぼんやりとした表情で歩き出す。雲のない空に在る黄色い月を見つけ、煙たそうに目をしかめた。

 女がこの町へ越してきてもう一年が経っていたが、まだ馴染めずにいた。自分とは関係のない町に、よそ者として場所を借りている感覚は強くなる一方だった。そうした考えからか、いつも人目を避けるように終電が終わった時間になると女は幽霊のように町を歩いていた。前方から歩いてくる人があれば、すれ違わなくてもいいように近くの曲がり角を曲がった。車二台は通れる街路ですれ違っても相手の顔までは見えないと分かっている。しかし居心地の悪さは拭えない。

 いつも通る公園を抜けると、喫茶店が出てくる。そこは五階建てのマンションの一階にあり、道路に面した壁は全面ガラス張り。通るときに店内を見ることが癖になっていた。電気が消え、人のいない店内は時間が止まったような静けさがある。音も温度もないその空間に、惹かれていた。

 しかし、今日は違った。街灯に照らされた壁際の一番後ろのソファー席に影が見えた。誰かがいるのだろうか、そんなことを思いながらも足はいつものパターンで進んでいく。影は少しずつ人間の形になっていく。女はその影の横で立ち止まった。

 影は席に腰かける男だった。ソファーにもたれかかり、街灯の光を頼りに文庫本を読んでいる。黒い長袖を着て、黒く長い前髪は目元を隠している。男の格好と夜の暗さから、血色の良い赤い口と青白い肌が光り浮いているように見えた。女は細く長い首と腕から死神を想像した。店内のどこかで冷たく倒れている店主を思い浮かべる。白髪で短髪の背筋の伸びた老紳士。この男が殺したのだ。いや、正確には迎えに来たのだろうか。

 女の影に気付き、男が顔を上げ外を向く。深く、丸い目は女の姿をはっきりと映していた。


 日が昇りはじめた頃、喫茶店の店主が階段を下りてくるとわざとらしく大きくため息をついた。そして壁際に腰かける男に向かって「閉店後は座らないでって言ってるでしょ」と母親のような口調で言った。

「おはようございます、大家さん」

 喫茶店のある場所はもともとエントランスだったが、今の大家が長年の夢だった喫茶店に変えたのだ。そのため、マンションの住民たちは喫茶店の奥にある階段を使わなければ居住スペースに上がれない。店が開いている時間は住民たちの共有スペースとしても使われている。

「電気もエアコンも使っていないですよ。もちろん、勝手に食べ物を漁ったりもしていません」

 男は悪びれもなく淡々と口にした。店主は再びため息をついて「そういう問題じゃないのよ」と言いながら首を振った。

「あんた、不気味だから幽霊に間違えられるかもしれないでしょ。事故物件やら心霊スポットって噂が流れたらたまったもんじゃないわ」

 男は小さく笑った。

「僕なんかより不気味な人が昨日いましたよ。店の中や僕のことを見ていた女性がいたんです。目を大きく開いて瞬きもせずに」

「あんたに驚いたんじゃないの」

「驚いたらすぐにその場から離れるでしょ。その人はずっといましたよ。今、大家さんが降りてくるまでずっと、ね」

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