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ある町  作者: にぼし
9/9

踏切

 あんまり覚えていないんですよね。いつから人の顔が見えなくなったのか。

 人の顔にモザイクがかかったようにパーツが認識できないだけなら良かったんですけど、いや、それもよくないんですけどね。僕の場合、渦に見えるんですよ。顔の皮膚が無理やり引っ張られて渦を巻いている。それも人によっていろんな場所にあるんです。真ん中の人もいれば右上とか左下とか。渦の数も一つだけじゃなくて二つや三つの人もいる。六つほどある人もいて、あれは気持ち悪かったなあ。あ、人の顔に向かってこんなことを言うのはよくないですよね。すみません。とにかく、見たくないんですよね。人の顔が、こう、ぐちゃぐちゃになっているのを。だから人の顔、顔がある部分にも目を向けられないんです。

 あ、そうそう、いつからこうなったのかって話でしたよね。さっきも言ったように記憶が曖昧なんですよ。何か強烈な事件が起きたとか、トラウマになるようなことを見たとかそういうこともなくて。しいて言うなら親指を隠さなかったことですね。

 あれは保育園の帰りか、小学校の帰りだったかな。それくらいの年の時、夕方に祖母と二人で歩いてスーパーに向かっていたんです。途中、踏切があってそこの遮断機が降りて警報音が鳴って、おばあちゃんが「親指を隠しなさい」って言ったんです。でも僕は理解できずに親指を隠さなかった。

 多分、その日から人の顔がぐちゃぐちゃに見えるようになったんです。多分、そう、記憶が曖昧で。

 いろんな病院やお寺に行ったんですけどね。ダメみたいで。鏡に映る自分の顔だけは渦巻いていないので、それだけが救いです。


 御杖と名乗った青年は一度も顔を上げることなく、カウンター越しにこちらの名札を見ながら話していた。

「写真とかもダメなんですか」宇井は真顔で尋ねた。

「ダメですねえ」御杖は間延びした声で苦笑した。

  深夜のコンビニに、午前四時を知らせるラジオの声が響く。

「すみません、仕事中なのにこんな長話を聞いてもらって」

 申し訳なさそうに笑う御杖に、宇井は胸元で手を振った。

「いえ、僕が訊いたことなので。ほら、前に顔が見えないって言ってたから少し気になって」

 二人の頭の中に、先日二人が遭遇した女性の姿と声が浮かんだ。

「宇井さんのことを指名手配犯だって言っていた人ですよね」

 御杖は笑い声を立てた。

「あれは参りましたよ。御杖君も違うって言ってくれないし」

「あれは名札をしていなかった宇井さんが悪いですよ」


 宇井は帰り道、勤務中の御杖との会話を思い出していた。自分の顔にはいくつの渦がどんな場所にあるのか、流石に訊くことはできなかった。

 このまままっすぐ行けば踏切がある。そういえば、彼の言っていた踏切はどこの踏切なのだろうか。少しずつ踏切が近づき、赤いランプの点滅とゆっくりと降りる遮断機が見えてくる。無意識のうちに両手の親指をぎゅっと握った。

 早朝の静けさの中で警報音が異常なほどはっきりと聞き取れた。

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