第17話「『ミラル』、堕天使はその名を想う」
「他人とかかわることにおいて、最も大事なのは信頼じゃ。どんなに能力が高かろうが天才だろうが秀才だろうが、信用できぬ者は意味がない」
細くしなやかな指が、青年の頭上からおろされる。
「お主はわらわの信頼を得ることができなかったのじゃぞ。……愚かな堕天使よ」
遥か上の雲の上にあるのは、まっさらな世界だ。
街々が栄えているわけでもなく、草木が生い茂っているわけでもなく。純白に統一された巨大な宮殿がいくつか、不可思議な力によって宙に浮いているだけ。
白い翼を生やした天使が、機械的な動作で、天の国での職務をこなしていた。
その中でも、とりわけ豪華な宮殿には、天使たちが最も崇める人物がいた。
桃色に微かな金の光沢が入った髪。少しはだけた薄水色の羽衣。
緑色の美しい瞳を持った少女だ。彼女こそ、地上の人間が、天使が敬う頂点の女神、レナスだった。
「かつて堕としてきた天使は、人間界で勝手に死に腐っていったが……お主は何とか生き延びれたようじゃな。悪運の強い奴だ」
レナスは緑の瞳に冷たい光を宿し、首を傾げて下を見下ろす。
女神が据える神玉の間――その階段の下に、一人の青年が立ち尽くしていた。
銀髪の堕天使、リタだ。
左右には槍を持った天使が立っており、逃げることはできない。
「……ん? また祈りが届いておる。なになに……私たちの町を平和にしてください、じゃと? 小さな町のことなど知らぬ。こんなもの無視じゃ」
「……」
レナスのそばに置かれた水晶が光り輝いたが、彼女は指先で一瞬だけ触れ、すぐに光を消してしまった。
リタはそんな彼女の行動を黙って見つめている。
「……」
「なぜお主を呼び戻したか? それは、信頼を越える例外があったからじゃ」
「例外……?」
「お主は愛想のない無口な奴であった。しかし能ある鷹は爪を隠すというか……お主は天使の中でも秀逸な魔法を使えるようでな。だって、あらゆる属性の魔法を操れるのじゃろう? わらわと変わらぬではないか」
レナスは雲のように柔らかいソファーへ腰かけ、フッと長いため息をついてみせた。
幼い少女のような姿の彼女。しかしひとつひとつの動作は、成熟した仕草だ。
「わらわは姿が永久に変わらないから、わかりにくいじゃろうが……すでに歳をとっている。次期の神になる候補者を、上位天使から出さねばと思っておったが……思い返せば、お主ほど適任な者はおらぬと思ったのだ。強さはいずれ信頼に変わる。下位に属す天使じゃが、お主になら神の座を譲ってやろうと考えたのじゃ」
「しかし……」と、レナスは指先を振りながらため息をついた。
「一度天の国から堕としてしまった天使が生きてるなど、そうそうないからな。諦めていたのじゃが……地上から、神の直感が感じたのじゃ。お主が放つ雷のエネルギーを! これ以上の幸運はないと思い、即座に上位天使共にお主を捜させたのじゃよ」
「……なぜ、信頼できない俺を神に?」
「さっきも言わなかったか? 強さは証明になり、証明は信頼に変わる。お主の強さは、信頼に値するのじゃ」
するとリタは、傍で槍を構えていた上位天使たちが、小声で文句を言うのが聞こえた。
「レナス様ってさ……ちょっと何言ってるのかわからないよな。矛盾していること言ってるし。信頼は何よりも勝るものじゃないのかよ?」
「さぁ……。しかも俺たちだって、頑張って神様になろうと努力していたのに。上位天使でもないリタが神に抜粋されるとか、あり得ねぇよ」
「ちょっ……! お前の声、大きいぜ。聞こえたら終わるんだから」
そんな言葉も頭に入れつつ、リタは思う。
(レナス様は……相変わらず自己中な人だ。この人を今から俺は……)
ふと、彼の脳裏に、笑顔を浮かべたローブの少女が映った。
(ミラル。俺は……もう、お前に心配はかけない)
村人たちに捕まったのはわざとだ。
もちろん、容易く逃げることは可能だったし、天界の追手を追い払うことだって、俺の魔法があればできたことかもしれない。
でも俺はやめたんだ。人間界で抗うことを……
でないとミラルが。お前が、いつしか危険な目に晒されるかもしれないから。
教会についたら、迎えに来ていたのは複数の上位天使だった。
……今でも、あいつらの行動を俺は許せない。
村人たちを「お金に釣られた」と嘲笑い、対価を何も払わなかったんだ。彼らは絶望していた。正直俺は、その場で天使全員を殺してしまいそうな気分だった。
それで今、俺は神のもとへ戻ってきたわけだ。
俺が神になれると聞いたときは、驚いてしまった。それと同時に、チャンスが巡ってきたと俺は思った。
祈る子どもたちの声もろくに聞かない。
地上で起こる貧困の差を、知らぬかのように無視をする。
天使たちの不満を買い、自分勝手にふるまう。
そんな神など――いない方がマシだ。
いや、レナス様はもはや、神でもなんでもない。
(レナスが神でないなら、今、神玉の間は空席だ。だから俺が神になってやる)
俺なら、正しい世界をつくれる。
地上で見てきた惨劇が繰り返されないように、俺が変えてやる。
今までは、運命も成り行きも、すべて受動的に受け入れてきた。
でも、ミラル。お前と出会ったことで、俺は自分で決める意思を持てたんだ。
すまない、ミラル。急にいなくなって。
許してくれ。
そして……もうお前がいなくても、俺は大丈夫だ。
「……お主、何をしておる?」
レナスは自分の目を疑う。
突然リタが両手を広げ、手先に魔力を込め始めたのだ。
「うああっ!」
脇にいた上位天使たちは、あまりに強い魔力の圧に押され、動けない。
リタはレナスを鋭い眼光で睨みつけ、大きく叫ぶ。
「ならお前の言う通り、俺は神になってやる。でもその前に……お前を殺してからだ!!」
「……お主! 乱暴はやめろ!」
レナスは両手を伸ばし、魔法で対抗しようとしたが――リタの魔力による威嚇で、吹き飛ばされそうになる体を押さえるのが精いっぱいだった。
「……くぅっ!」
「まだまだ俺は力を出していない。この魔力を一気に放った時、どうなると思う?」
「お主! 女神に逆らうと言うのか!」
「お前は神なんかじゃない……。今の俺なら、お前を倒せる気がするんだ」
本来、神という絶対的な存在は、誰しもが叶わない。
しかしリタは――覚悟を決めた今、自分にできないことは何もないと感じていた。
そして、溜め込んだ魔力を一気に放とうとした。
その瞬間――
「……がはっ!?」
突如、彼の全身に、激痛と痙攣が走った。
視界が回転する。めまいを感じ、リタは床に膝をついてしまった。
(な……んで……魔力を放てないんだ……)
「なんじゃ、こいつ……? 魔法を出そうとして、勝手に倒れたぞ?」
レナスも困惑している。どうやら誰かが攻撃をしかけたわけではないようだった。
(まさか、俺が使える魔力の限界値を……? そんなわけない。地上で、俺はもっと強い魔力を出せた。ミラルがいたから……)
頭の中でそう考えながら、唯一、彼は引っかかるものを感じた。
(……ミラルがいたから? 俺は、ミラルがいないと戦えないのか?)
そんなわけがない。ミラルと出会う前から、リタは天の国で優秀な戦力だった。
――彼に思い当たるのはひとつ。地上にいるときは、たとえ全力でなくとも、ミラルを守る思いで力を使い尽くしてきた。
……つまり、ミラルという原動力がない限り、力をうまく使えなくなってしまったのかもしれない。
(そんな馬鹿なことっ……)
「こんな程度か? いや、おかしいな。お主は地上では強力な魔法を放っていたはずなのに……」
レナスの独り言が頭上から聞こえる。
「……まぁいい。天使たちよ、わらわに逆らうような奴は神になんてできん。そやつを殺してしまえ」




