93話 消えない皺、消えないトラウマ
動揺する健二の手を、エリスが握った。
妹の小さな手は、緊張のためか冷たくなっていた。それでも、エリスは兄を励ます。
「カグ兄様。おそらく、お父様は告発文の件で来訪するんだと思う。カグ兄様に危害を加えるためじゃない。そんなこと、エリがさせないよ。だから、まずは安心して」
「エリス……」
「カグ兄様、怒らないで聞いてほしいんだ。これはチャンスだよ。カグ兄様の素晴らしさを、直接伝えられる絶好の機会だよ!」
エリスは自分に言い聞かせるように、小声で繰り返した。
「今を逃せば、お父様はカグ兄様ともう会ってくださらないかもしれない。もしかしたら、エリにももう会うなって言われるかも。難しいのは百も承知。けど……だけど! カグ兄様ならきっと」
焦燥感のにじむ口調からは、彼女自身が一番、宗厳を説得することの厳しさを理解していることが伝わってきた。
「ありがとう、エリス。俺のために無理はしなくていい。このままじゃ、エリスの方が辛そうだ」
「カグ兄様……」
「俺なら大丈夫。父さんだって、いきなり取って食うわけじゃないさ」
健二は笑おうとした。だが、上手くできなかった。
その姿を見た輝夜が「私もついて行くよ」と真剣な表情で申し出た。隣では怜奈も、唇を引き締めて頷いた。
それからしばらくして、早出の生徒たちが登校してきた。
彼らは1日目に続いて、正面入口の物々しい空気に怪訝そうにしていた。
1台の黒塗りの車が、学園前に堂々と停車していたからだ。
早朝の冷たく澄んだ空気が、車の周りだけ淀んでいるような威圧感だった。
運転手が恭しく後部座席の扉を開くと、大柄な男性がのそりと姿を現した。
漆黒のスーツの上に、漆黒のインバネスコートを羽織っている。黒手袋をした指で、スクエアタイプの眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。足元は、磨き抜かれた黒の革靴だ。
黒薔薇家の現当主、黒薔薇宗厳だった。
彼は、ざわつく生徒たちなど意に介さず歩き出す。まるで、自分に仇なすものなどこの世に存在しないと言わんばかりの態度だった。
その足が、ぴたりと止まる。
健二とエリスが、宗厳の前に進み出たからだ。
「お父様、お疲れ様です」
「うむ」
12歳とは思えない洗練された態度で出迎えるエリス。宗厳は鷹揚にうなずいた。
そして、鋭い眼光で隣の健二を見る。
「お前か」
「……お久しぶりです。父さん」
「父さん?」
宗厳が片眉を上げる。
彼の眉間には、深い皺ができている。日々の激務と、名家のトップたる緊張感が、宗厳の顔に消えない刻印を刻み込んでいたのだ。彼がどんな表情を浮かべても、この皺が消えることはない。
久しぶりに対面する父の姿に、健二の全身が強ばった。その場で直立不動になり、動けない。
肩甲骨の間にじんわりと汗が滲むのを、健二は感じた。
(やはり父さんは……大きい。今でも)
輝夜や千影たちのおかげで、トラウマの多くは克服できたと思っていた。しかし、健二の根っこのところは変わっていなかったのだ。
トラウマの象徴、父である黒薔薇宗厳への苦手意識は、いまだ心に深く刻まれているのだと、健二は思い知った。
そんな健二の前に立ち、エリスは宗厳に訴えかけた。
「お父様! カグ兄様は、もう以前のカグ兄様ではありません。黒薔薇家の人間にふさわしい能力と風格を身につけているのです!」
「ほう」
「昨日、兄様と一緒に天翔祭を回りました。その結果、カグ兄様の学園への貢献度がとても大きいとわかりました。生徒たちも、皆、カグ兄様に好意的で、その力量を認めています。カグ兄様は今や、学内で最も注目され、慕われている希有な人材なのです」
「ですから、どうか」とエリスは小さな身体を大きく折り曲げ、宗厳に懇願した。
しかし、宗厳は聞く耳を持たなかった。
「家の者を使って、ずいぶん勝手なことをしたものだ。エリス」
びくりとエリスの肩が震える。
「お前はまだ12歳。愚かな行為も今だけだと思って見過ごしていた。だが、これだけは言っておく。私は、この男を家に戻すことを認めたわけではない」
宗厳の言葉から、エリスが神社再建の代わりに本家へ戻るよう健二へ働きかけたことは、彼女の独断だったと、健二は悟った。
(夕陽ノ万津神社で再会したとき、『帰還が認められた』って言ってたのは、エリスの願望だったのか。父さんと本家に逆らうような真似をして、本当に無茶をする)
「カグ兄様は、昔とは違います。昔よりももっと、笑うようになりました。心が豊かになられたのです!」
宗厳の冷たい視線を受けつつ、エリスはなおも必死に訴えかける。
そのエリスに、宗厳が顔を近づけた。そして能面のような表情で、エリスに言った。
「あまり私を失望させるな、エリス」
息を呑むエリス。
周囲の温度が、一気に数度下がった気がした。
事情を知らない一般生徒ですら、思わず立ち尽くすほど。
これが、現当主の覇気というものなのか。
エリスは宗厳から視線を外すことができないでいた。彼女の意思とは無関係に、「ごめんなさい」という言葉が零れそうになる。
そのとき、健二が前に出た。妹を庇うように、宗厳の前に立つ。
それは、ほとんど無意識の行動だった。
かつて黒薔薇耶倶矢だったころなら絶対にできなかったこと。
健二は、激しい鼓動と汗を感じつつ、宗厳と睨み合った。
「お待ちください!」
そこへ、輝夜が声を上げた。
「黒薔薇家当主、宗厳様。御言葉ですが、ここにいらっしゃる佐藤健二さんは、優しさと奉仕の精神を持っています。私は実際に、彼の優しさに救われました。やっくん……健二さんは、黒薔薇家が誇るべきじゅうぶんな人格者ではないですか」
必死に健二をフォローする輝夜。
すると、遠巻きに見ていた生徒たちの数人が「そうだよね」「わかる」と賛同の声を上げた。
しかし、宗厳は冷たく言い放った。
「高嶺のお嬢様は少し黙っていただきたい。これは我が家の問題であり、そもそも、この男は黒薔薇家を捨てた人間だ。あなたも自分で口にしただろう。この男は黒薔薇ではない」
「捨てたなんて……それは、本家の圧力で仕方なくでは」
宗厳が輝夜を睨む。
そして、再び健二に向き直ると、宗厳は告げた。
「当主となることを放棄した人間は、もはや我々と同等ではない。優しさだけでは黒薔薇の名を背負えはしない。背負わせるわけにはいかない」
「……」
「それでもなお、あの頃とは違うと言うのであれば、その証拠を見せてみろ」
そう言って、宗厳が取り出したのは、あの告発文だった。同じ内容が宗厳のもとにも届いていたのだ。
「このふざけた紙切れを作った犯人を捜し出し、私に突き出すのだ。黒薔薇家にとって有用であると、行動で示せ。そうすれば、私と同席し、意見することを許す」
輝夜が健二に寄り添う。
「そんな、実の息子をまるで部下みたいに」
「口出し無用と言ったはずだ」
宗厳の口調が厳しさを増す。
そのときだった。
凜とした女性の声が響いた。
「なにごとですか」
天翔学園の長、楓華だった。




