88話 天秤の真意
「おい、大人しくしろ!」
「チッ。離せよ、俺はなんもしてねえって!」
エリスを気遣いながら立ち上がったとき、チンピラの声が聞こえてきた。
振り返ると、黒服を着た男女がチンピラを拘束していた。彼らには見覚えがある。エリスの護衛たちだ。
チンピラはさしたる抵抗もなく、黒服たちに連行されていく。健二たちの前を通り過ぎるとき、チンピラのつぶやきが聞こえた。
「話が違うぞ……ホントにこんなんでいいのかよ。ただのガキじゃねえか」
ガキ、とはエリスのことだろう。チンピラに失望されても痛くもかゆくもない。
だが――。
(……話が違う? 何のことだ)
健二は眉をひそめた。すでにチンピラたちは廊下の奥へと消えていくところだった。
そのとき、健二は視線を感じた。自分とエリスのことをじっと見つめている誰かがいる。
さりげなく辺りを見渡すが、集まってきた野次馬が多くて、誰が視線の主なのかわからなかった。
(何かが、エリスの周りで動き始めている)
健二はそう確信し、妹の肩に置く手に力を込めた。
「お嬢様、遅くなりました。お怪我は?」
黒服の女性が駆け寄ってきて、エリスの状態を尋ねた。
エリスは、健二の胸に顔を埋めたまま「大丈夫です」と大人びた口調で答えた。
黒服の女性は遠慮がちに進言した。
「おそれながら、もうご自宅へ戻られたほうがよいです。いくらお嬢様のご希望とはいえ、我らもこのまま遠方から見ているだけというのは……」
「構いません。あなたたちに罪はないので、どうか気にしないでください」
「そうはおっしゃいますが」
黒服の女性はほとほと困って、健二の顔をちらりと見た。
健二はエリスの背中を撫でながら、努めて優しく言った。
「エリス。こちらの人の言うとおりだ。今日はもう戻ったほうがいい。こんなに怯えているんだ。ゆっくり休んで、気持ちを落ち着かせよう」
「……嫌」
健二の言葉も拒否するエリス。頑なだった。だが健二は、ただのわがままと思えなかった。さっきよりも震えが強くなったからだ。
「カグ兄様が、どこかに行ってしまう」
「大丈夫だ、エリス。俺はどこにも行かない」
「雹が、雹が、嫌。嫌なの……カグ兄様が、どこかに行っちゃう……!」
黒服の女性が「雹?」と首を傾げる。
エリスはうなされたように、ぶつぶつとつぶやき続けている。
健二は、妹の苦しげなつぶやきの意味がわかった。エリスは今、健二が黒薔薇家を追い払われたあの日のことがフラッシュバックしているのだ。
チンピラによって恐怖を煽られ、昔の嫌な記憶が呼び起こされたのだろう。
(エリスにとっても、あの日のことはトラウマだったんだな……。ごめん、エリス)
健二は心の中で謝罪し、強くエリスを抱きしめた。
「エリスの護衛の方。すみませんが、ここは俺に任せてもらえませんか。静かな場所で、エリスを落ち着かせたい」
「……。かしこまりました。学校への報告と謝罪は、我々で行います。何かありましたら、お嬢様の端末からご連絡を」
わずかに逡巡してから、黒服の女性は引き下がった。
ざわつく野次馬たちに謝罪と説明をしながら、騒動を収めていく。
「あの、健二君。エリスお嬢様は大丈夫?」
遠慮がちに怜奈が声をかけてきた。正直、大丈夫と言えなかった健二は、「少し場所を移すよ」とだけ告げた。
「そう、だよね。兄妹ふたりきりのほうが落ち着けるよね。じゃあ、私はクラスに戻るから――」
未練を残しながら踵を返す怜奈。その裾を、エリスの小さな手がつかんだ。
健二はわずかに頬を緩めた。
「怜奈さん。一緒に付き添ってくれないか。その方がエリスも落ち着くみたいだ」
「え……いいの?」
「しっかり服をつかんだその手が、証拠だよ」
「わ、わかった。……ありがとう、頼ってくれて」
そう言って、怜奈はエリスの手を握った。
それから健二たちは、人混みを避けて校舎を出た。健二の職場であるプレハブ小屋の用務員室へ向かった。
道中、護衛の人たちのことやエリスの怯えとつぶやきのことを、怜奈は何も聞いてこなかった。
その気遣いがありがたいと健二は思った。
用務員室に到着すると、宿直用の簡易ベッドにエリスを座らせた。ポットで湯を沸かし、子どものころ作ってあげた甘いほうじ茶ラテをエリスに振る舞う。
「……おいしい。それに懐かしい味」
「使用人さんたちの目を盗んで、よく作ってあげてたよな」
「甘いの好き」
ようやくエリスが微笑んだ。健二はホッとした。
ひと心地ついたエリスは、カップの縁を指先でなぞりながらつぶやいた。
「あーあ。途中まではうまくできてたと思ったのに。カグ兄様に、不良にも負けない強いエリを見せたかったな」
「エリスお嬢様はじゅうぶん強いよ。私なんか突き飛ばされてそれまでだったし」
怜奈がフォローする。エリスは自虐的な笑みを浮かべた。「黒薔薇家の娘としては全然足りないんだよ」とエリスは言った。
棚の上に置かれたお守りやリボンを見上げる。
「ねえカグ兄様。エリね、カグ兄様に謝らないといけないの」
「どういうことだい?」
「夕陽ノ万津神社の再建と土地取得の話、あれはカグ兄様とこうして昔みたいに話すための口実だったの。……びっくりしたでしょ?」
「久しぶりに再会して、まさか実家への帰還と神社再建を天秤にかけられるとは思ってなかったよ」
「ごめんなさい。本当は、ね? エリはカグ兄様のやりたいことを邪魔するつもりはないの」
ベッドの上で膝を抱えるエリス。
「もちろん、カグ兄様には黒薔薇家に戻ってきてほしい。それは心からの、本当の気持ち。でも、カグ兄様はこれまでエリのために、自分を犠牲にしてきた。だから、たとえカグ兄様が黒薔薇家に戻らないと決めても、エリはずっと応援するつもり。もちろん、神社再建を放り投げるなんてこともしないよ。あそこはエリの生まれた場所で、エリとカグ兄様と、お母様の大事な場所だもの」
「エリス……」
「こうやってカグ兄様と一緒に学園祭を回れて、楽しかった。夢だったもん。カグ兄様には、夢を叶えてくれた恩返しをちゃんとしないとね。神社のことは、任せてよ」
エリスは胸を叩いたが、表情はぎこちない。
無理をしていると健二は思った。
そのとき、ひとつの考えが健二の中に浮かぶ。
(もしかしたら、エリスは実家に無断で動いているんじゃないか?)
先ほどチンピラに絡まれたとき、エリスの護衛の黒服の女性は歯切れが悪かった。
あれは、本家の指示によらず勝手な動きをするエリスを、慮ってのことではないか。
健二は、エリスの隣に座った。
妹の頭を抱き、ゆっくりと撫でた。
「エリスが謝ることなんてない。無理をすることなんてない。俺は、こうしてエリスと再会できたことが嬉しい」
「カグ兄様」
エリスは気持ちよさそうに目を細めた。
「この時間があれば、他は何もいらない」
満ち足りたようにつぶやいたエリスを、怜奈がまぶしそうに見つめていた。




