87話 間一髪の救出劇
学園長室を出た健二は、エリスから渡されたスマホを手に取る。
ちょうどその時、エリスからメッセージが届いた。
『にりさまてすけて』
一見すると、無意味な文字列だ。
これがエリスのいたずらではなく、焦って入力ミスした結果だとすれば。
例えば、画面を見ずにメッセージを入力して操作を間違えたのだと考えれば。
「――『兄様助けて』」
「なぉん!」
ネコマタが床に飛び降り、健二を急かすように鳴いた。
健二は頷き、駆け出す。手で素早くアプリを起動。黒薔薇家特製のスマホには、互いの位置情報を知らせる機能が付いている。
エリスはまだ校内にいるようだ。階層まではわからないが、これまで回っていない店を除外すると、ある程度、居場所に目星が付く。
ネコマタとともに廊下を走る。
「あそこか」
予測は当たった。前方に人垣ができ、騒ぎになっていたのだ。
壁に寄りかかるようにして、怜奈が尻餅をついているのが見えた。突き飛ばされたのか、顔をしかめている。
さらに、人垣の間から、エリスがチンピラ風の男性に絡まれている様子も見えた。
健二が人垣をかき分ける間、不穏な会話が聞こえてきた。
「おい、もう一度言ってみろ!」
「何度でも言って差し上げます。小学生女子相手にイキるなんて、大人としてみっともなくて情けないです」
「口だけはたっしゃだなあ! じゃあ、これでも同じ台詞を吐けるか!?」
チンピラ男が拳を振り上げる。あまりにもありがちな、薄っぺらい威嚇。芝居がかっているとさえ感じる、恫喝。
エリスは逃げずに、毅然と男をにらみ返していた。だが、その手や足は細かく震えていた。
緊張で身を強ばらせているのだ。
いくら黒薔薇家の令嬢として、大人たちと対等に接してきたと言っても、チンピラを相手にする経験はないはずだ。
直接的な暴力を前に、幼いエリスは動揺していた。
「おらぁっ!!」
「……っ!」
チンピラが再度、怒鳴って凄む。エリスは思わず、ぎゅっと目を閉じてしまった。
健二が人垣を抜け出したとき、チンピラ男が口元をわずかに動かした。「そうそう、その調子」とつぶやいたように、健二には見えた。
「やめろ、そこまでだ!」
「カグ兄様!」
健二の叫びに、エリスがパッと表情を明るくする。そのまま健二の方に駆け寄ろうと踵を返す。
そのときだった。
壁に立てかけられていた大きな看板が、ぐらりと倒れてきたのだ。
エリスは健二を見ていて、気付くのが遅れた。
危ないと叫ぶ時間も惜しみ、健二は床を蹴った。
エリスのもとに飛び込み、その小さな身体をかばう。
時間の感覚が引き延ばされる。手作り看板がゆっくりと倒れてくるように見える。周囲の悲鳴が意識から遠のく。
健二の背筋に冷たい汗が流れる。
倒れてくる看板から、釘が飛び出しているのが見えたのだ。組み立てが甘かったのだろう。
歪に曲がった釘の頭が、まるで先端のように鋭く尖っていた。
釘は、十分な凶器になる。それが健二たちに向かって迫ってくる。
エリスが息を呑む。彼女も釘に気付いたのだ。
ガァンッ!!
看板が倒れ、大きな音を立てた。
「カグ兄様!!?」
「大丈夫だ」
健二は答えた。背中から看板をどかす。
とっさに身体の位置をずらしたおかげで、惨事は避けられた。上着の肩口がわずかに破れている。
間一髪だった。
もし、ほんの少しでもエリスをかばうのが遅れていたら、彼女は大怪我をしていただろう。看板の釘は、まるでエリスを狙ったかのように絶好の位置にあった。
たとえステルス能力が失われても、大切な誰かを助けたい気持ちは失われていない。身体が、『恩返し』を覚えていたのだ。
(それにしても、本当に危なかった)
倒れた看板を振り返る。
用務員の目で見て、不自然な細工は見当たらない。設置や組み立てに過失はあっても、故意はないのかもしれない。
ただ――『不自然』ではある。
なぜ、エリスを狙い撃ちするように倒れてきたのか。
まるで、見えない誰かが、タイミングを見計らって看板を倒したかのようだ。
あるいは……黒薔薇家における霊への畏敬を踏まえるなら、エリスに対する『祟り』か。
眉間に皺を寄せる健二。彼の裾を、エリスがぎゅっと握った。チンピラに相対していたときよりも、さらに強く震えている。
「……釘、見えた。カグ兄様が助けてくれなかったら、あのまま、エリの額に刺さっていたかも……そうなったら、エリは……黒薔薇家に……お父様に……」
「エリス、もう心配ない。だから落ち着け。俺がそばにいるから」
健二と再会して以来、初めて見せる強い怯え。
黒薔薇家の威光では防げない命の危機を肌で感じ、次期当主としての仮面が剥がれかけていた。
まだ幼い妹の背中を撫でながら、健二は昔のようにエリスを宥め続けた。そうしてようやく、エリスは落ち着きを見せた。
「カグ兄様、ごめんなさい。怜奈お姉ちゃんが突き飛ばされたのを見たら、エリ、我慢できなくなって」
「それでこそ俺の妹だ。エリスを誇りに思うよ」
そう優しく伝えてから、健二は怜奈を振り返る。
「怜奈さん。君も大丈夫だったかい?」
「え、ええ。何とか。私はただ突き飛ばされただけだから。止められなくてごめんなさい」
お尻を押さえながら、怜奈が立ち上がる。どうやら、エリスに絡んだチンピラを止めようとして、突き飛ばされたらしい。
健二は感謝を込めて目を伏せた。
「ありがとう。エリスを守ってくれて」
「怜奈お姉ちゃん、ありがとう」
「健二君、エリスお嬢様」
誰かから感謝されることに不慣れな怜奈は、わずかに赤面しながら髪先をいじった。「これくらいで恩返しになるのなら」と彼女はつぶやいた。
剣崎プロデューサーの事件のとき、どん底の怜奈を叱咤したことを、彼女は恩義と感じていたらしい。
(また返したい恩が増えたな。こうやって、繋がりが広がっていくんだ。きっと)
トラウマを解消できず、感情を失ったままだったなら、気付かなかっただろうと健二は思った。




