訂正します【後半】
エルザは、俺の目の前に立っていた。
見下ろしてくる顔は、やっぱり何の表情もない。
怒っても、勝ち誇ってもいない。
ゴミ山の上のゴミを見る目ですらない。ただ、仕事の目だった。
「抵抗を終了したと判断します」
「……してねえよ」
「では、抵抗を継続しますか」
答えられなかった。
答えるだけの言葉が、もう残っていなかった。
「あなたのチップは破損しています。校正はできません」
エルザが言った。事実を読み上げるみたいに。
「よって、上層区へ移送し、解析します。あなたがどうやって廃語に力を持たせているのか。誰があなたに協力しているのか」
「協力?」
「同時刻、同街区で、ロゴスの記録が書き換えられています。あなた一人の仕業とは考えにくい」
タクトのスコアのことだ。
あの取り消しは、こいつらにとっても異常だったんだ。
じゃあ、誰が。
頭に浮かんだのは、屋根の上の白衣の子どもだった。
「……名前を確認します」
エルザが端末を見た。
「灰村、■心。中央の字が判読できません。正しい名前を言ってください」
「瓊だ。瓊心」
「その字は、辞書にありません」
「知ってるよ。おまえらが捨てたんだろ」
エルザの目が、ほんの一瞬だけ、俺の顔に止まった。
何か言いかけた――ように見えた。でも、何も言わなかった。白い手袋の手が、俺の腕に伸びてくる。
――その瞬間。
ころん、と。
俺とエルザのあいだに、何かが転がってきた。
空き缶だった。缶コーヒーの。
「……?」
エルザが缶を見下ろす。俺も見下ろす。
缶が、ぷしゅっと鳴った。
次の瞬間、あたりが真っ白な煙に包まれた。
「――視界不良。センサー、応答なし」
煙の向こうで、エルザの声が初めて、ほんの少しだけ速くなった。
「スーツの感知機能に干渉――これは、ロゴスの規格の――」
最後まで聞こえなかった。
煙の中から、小さな手が伸びてきて、俺の襟首をむんずとつかんだ。
見た目のわりに、とんでもない力だった。
「こっち。黙って。走って」
女の声だった。だるそうで、早口だった。
引きずられるまま、ガラスの斜面を転がり落ち、さっきの排水路の格子に頭から突っこまれる。
真っ暗な穴の中を、小さな手に引かれて、はうように進んだ。
右へ、左へ、また右へ。
下層区の地下にこんな迷路があるなんて、ガキの頃から潜っていた俺でも知らなかった。
どれくらい進んだかわからない。
やがて、手が離れた。
かちっ、と音がして、小さな明かりがついた。
懐中電灯を持っていたのは、屋根の上で見た、あの白衣の子どもだった。
近くで見ると、本当に小さい。
俺の胸までしか背がない。ぶかぶかの白衣。
目の下のクマ。片手には、新しい缶コーヒー。
そいつは缶を開けて一口飲むと、俺の顔をじっと見て、言った。
「……泥だらけでも、かっこいい」
「おまえ、誰だよ」
「黄泉坂カナ」
「中学生が、こんなとこで何してんだ」
カナは、缶コーヒーを持ったまま、ゆっくりと半目になった。
「二十五歳です」
「は?」
「二十五歳です。中学生じゃない。お酒も飲めるし、選挙にも行ける。この街に選挙はないけど」
「いや、どう見ても――」
「二十五歳です」
三回目だった。
同じ言葉は三回目に効かない。
今日、身をもって覚えたルールだ。
でも、こいつの「二十五歳です」は、三回目がいちばん効いていた。
「……わかった。わかったよ、二十五歳な」
「よろしい」
カナは満足そうにうなずくと、白衣のポケットからもう一本缶コーヒーを出して、俺に押しつけた。
「飲む?」
「……もらう」
プルタブを開けて、一口飲む。
「苦っ」
「ブラック。大人の味」
「おまえが言うと説得力ねえな」
「二十五歳です」
四回目だった。
「さっきの煙、なんだよ。あの治安官のスーツまで黙らせてたぞ」
「缶コーヒーの空き缶。中身は自作。ドローンの目とスーツのセンサーを、一分くらいだけ眠らせる」
「自作って……」
「リサイクル。ゴミ字の住人の基本でしょ」
さらっと言うが、ロゴスの規格に干渉する空き缶なんて、ゴミ字の住人に作れる代物じゃない。
「……あの治安官、なんなんだよ。言った端から全部訳されて、ひとつも効かなかった」
「エルザ・ノルム。校閲局でいちばん辞書が分厚い人」
カナは、ちょっとだけ口の端を上げた。
「でもね。あの人にも、訳せない言葉はあるよ」
「どんな」
「自分が一度も感じたことのない気持ちの言葉」
カナはそれ以上は言わなかった。言わないほうが面白い、という顔をしていた。
「タクトのスコアを取り消したのも、おまえか」
カナは答えなかった。缶コーヒーをすする音だけがした。
「……なんで、俺を助けた」
「あなたが叫んだから」
カナは、懐中電灯の光を少しだけ下げた。
「五年ぶりに。ちゃんと、本気で」
背中が冷たくなった。
五年。俺が死語を口にしなかった年数を、こいつは知っている。
「瓊心」
俺は、息を止めた。
「……今、なんて」
「瓊心。いい名前。赤くてきれいな、玉の字」
この街で、俺の名前の真ん中の字を読めるやつは、一人もいないはずだった。
ロゴスも、役所の端末も、あの完璧な治安官でさえ。
「なんで、読めるんだよ」
カナは、缶コーヒーをもう一口すすった。
「ずっと、見てたから」
暗い排水路の中で、その言葉だけが、妙にはっきりと響いた。
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