訂正します【中盤】
「――訂正します」
その言葉を聞いた瞬間、俺は格子を蹴り上げて排水路から飛び出していた。
考えるより先に体が動いた。
逃げる、のではなく、前に出た。
光をかわしたばかりで、頭のどこかが変に熱くなっていたんだと思う。
ガラスになった斜面を駆け上がる。
女――エルザ・ノルムは、一歩も動かない。
「近づかないでください。不要な接触は推奨されません」
「知るかよ! おまえが降りてきたんだろうが!」
エルザは、手元の端末に目を落とした。
「確認します。あなたは本日、感情強度を伴う廃語を計四回発話しました。うち一回で校閲ドローン一機を破損。別の一回で、校閲ドローン五機を職務放棄に至らせました」
「職務放棄?」
「五機は現在、帰投ではなく『帰宅』を希望しています。ドローンに自宅はありません」
「知らねえよ、そんなの!」
ちょっと笑いそうになった自分が嫌だった。
「以上の行為は、言語管理法の第一条から第十二条に違反しています。抵抗を中止し、指示に従ってください。指示に従った場合、移送時の拘束具は一段階軽いものになります」
「選べるのかよ、それ」
「選べます。推奨は軽いほうです」
真顔だった。
冗談じゃなく、本気で推奨していた。
この女は、たぶん、冗談というものを知らない。
「……おまえ、友達いないだろ」
「交友関係は職務に含まれません」
「だろうな!」
時間稼ぎのつもりで口を動かしながら、俺は必死で考えていた。
チョベリバは今日、もう三回使った。
ゼロだ。超MMは一回。まだ半分残っている。
それ以外は、一度も叫んだことのない言葉ばかり。
半分でも、ないよりはましだ。
距離、十メートル。
腹の底に、まだ残っている「無理」をかき集める。
今日いちばん本気だった言葉。
「超MMッ!!」
紫色の結晶が、口から飛んだ。
――さっきより、明らかに薄い。
今日二発目。半分の威力。それでも、まっすぐエルザに向かっていく。
エルザは、よけなかった。
ただ、白い手袋の指を一本、すっと立てた。
「訂正します」
静かな声だった。
「『超MM』超、マジで、無理。標準語訳――『極めて困難です』」
紫色の結晶が、エルザの指先の手前で、ぴたりと止まった。
そして、さらさらと崩れた。砂みたいに。最初から何もなかったみたいに。
「……は?」
「廃語は、意味がわからないから効くのです」
エルザは淡々と言った。
「意味がわかれば、ただの言葉です。私が意味を言い当てた時点で、ロゴスはその言葉を学習します。学習済みの言葉は――あなたもご存じのとおり、ゼロです」
どこか遠くで、錆びたスピーカーが鳴った。
『廃語を検知。現場にて一等治安官が対応中のため、粛清を保留します』
光ですら、この女に任されている。
ドローンは、知らない言葉を「あとから覚える」だけだった。
この女は、知らない言葉を「その場で翻訳する」
二発目どころじゃない。一発目から、潰される。
それはつまり、こいつの前では、俺の言葉は全部「二回目」になるってことだ。
背中を冷たい汗が流れた。
ドローン相手なら、新しい言葉を出せば勝てた。
この女相手には、新しい言葉を出した瞬間に、もう古くされる。
「くそっ……」
頭の中の辞書をめくる。何でもいい。こいつが知らない言葉。こいつが訳せない言葉。
腹が立っていた。この女に。こんなやつを寄越してきた上層区に。こんな街に。
怒りなら、ある。
「激おこ――ぷんぷん丸ッ!!」
赤い結晶がはじけた。小さい。安っぽい。十年代の、瀕死の言葉。
でも、今の俺の気持ちには、ちゃんと合っている。
「訂正します」
エルザは、まばたきひとつしなかった。
「『激おこぷんぷん丸』
激しく、怒っている。語尾は意味を持たない装飾。
標準語訳――『強い憤りを感じています』」
赤い結晶が、崩れた。
「ふざけんな! ぷんぷん丸を真顔で訳すな!」
「訳しました」
「マジ卍!」
「感情強度、基準値未満。訂正の必要もありません」
――全部、潰された。
俺の五年分の臆病な辞書が、たった三手で、ただの辞書にされた。
逃げるしかない。俺は背を向けて、斜面を駆け下りようとした。
一歩目で、視界がひっくり返った。
何をされたのかわからなかった。
気づいたら、俺はガラスの上に仰向けに転がっていて、エルザが俺の足首を軽く払った姿勢のまま、こっちを見下ろしていた。
「逃走は推奨されません」
息ひとつ乱れていない。
光をかわして、ドローンを振りきって、泥水を走って、俺の体には、もうどこにも力が残っていなかった。起き上がろうとして、膝がガラスの上に落ちた。
ガラスの地面に、自分の顔が映っていた。泥だらけで、情けない顔だった。
――にいちゃん、帰ってくる?
――ほんとだ。帰ってきたら、さっきの続き教えてやる。
約束したばっかりだった。ラジ爺は「いけ」と書いた。
タクトは声を出さずに「がんばれ」と言った。
魚売りの婆さんは、干物をくれた。
その全部が、たった三手でひっくり返された。
「あなたの発話は、すべて訂正済みです」
頭の上から、エルザの声が降ってきた。
「これ以上の発話は推奨されません。喉を痛めます」
心配されたのかと思った。
違った。たぶん、移送する荷物の状態を気にしただけだ。
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