訂正します【前半】
上層区「グラマー」の朝は、午前五時ちょうどに始まる。
五時0分0秒。エルザ・ノルムは目を開けた。
目覚ましは鳴らない。
鳴らす必要がない。
彼女の体は、二十二年間一度も、この時刻を外したことがない。
白い天井。白い壁。白い寝具。
窓の外には、白い塔がいくつも並んでいる。
上層区の建物は、すべて同じ白で塗られている。
色の好みは、判断の揺らぎを生むからだ。
エルザは寝台から降り、白と紺の制服――言語フィルタースーツに袖を通した。
このスーツは、外から入ってくる雑音を遮断する。そして同時に、着ている人間の内側から、余計なものが漏れ出すのも防ぐ。
上層区の人間は、子どものころからこれに似たものを着て育つ。
だからエルザは、自分の中に「余計なもの」があるのかどうかを、確かめたことがない。
鏡の前で髪をまとめる。
銀色の髪を、一本の乱れもなく。
所要時間、四十二秒。昨日と同じ。一昨日とも同じ。
「おはようございます」
誰もいない部屋で、彼女は推奨表現を口にした。
『おはようございます、エルザ・ノルム。本日の言語信用スコア、九百九十八』
天井から、ロゴスの声が答える。
九百九十八。
上層区でも、上から数えたほうが早い数字だ。
残りの二点がどこで削られたのか、エルザは知っている。
三年前、任務中に一度だけ、報告の語順を誤った。
それだけだ。
朝食は、栄養が計算された白い固形食。
かむ回数、三十回。
通勤路の歩道では、すれ違う市民が全員、同じ角度で会釈を交わす。
「おはようございます」「おはようございます」
声の高さまでそろっている。
上層区の朝は、よく調律された楽器のようだった。
エルザはその音の中を、一定の歩幅で歩いた。
校閲局に着き、午前の報告書を書く。
誤字なし。語順の誤りなし。
端末のメモ欄には「未処理事項:0件」と表示されている。
この表示が0以外になったことは、三年間一度もない。
午前十時十二分。
腕の端末が震えた。
『緊急。下層区第七街区にて、感情強度の基準値を超えた廃語の発話を検知。校閲ドローン一機、破損』
エルザの指が、ほんのわずかに止まった。
ドローンの破損。
下層区で、そんなことは記録上、一度も起きていない。
端末に、破損したドローンの最後の記録が再生される。
『チョ、ベリ、バ、とは、なんで、す、か』
エルザはその音声を、三回再生した。
チョベリバ。辞書にない。
照合しても、意味が出てこない。
分類は「廃語」
それ以上のことは、何もわからない。
わからない、という状態を、エルザはあまり経験したことがなかった。
彼女はその単語を、メモ欄に書きこんだ。
「未処理事項:一件」
⭐︎⭐︎⭐︎
校閲局の司令室は、上層区でいちばん高い塔の最上階にある。
「来たか、ノルム一等治安官」
窓際に立っていた男が振り返った。
朱崎監査官。
四十代半ば。仕立てのいい白い制服の胸に、赤い線が一本入っている。
局内では「赤ペン」と呼ばれている。
本人の前で呼ぶ者はいない。
「下層区のゴミが一匹、喋ったそうだ」
朱崎は、楽しそうに言った。
楽しそう、という表現が正しいのかどうか、エルザにはわからない。
ただ、朱崎の口元は、他の局員とは違う形に曲がっている。
彼は上層区で唯一、「校正」という言葉を口にするとき、声の温度が上がる人間だった。
「対象の情報は」
「それがな。照合不能だ。チップが壊れているらしい。スコアもない。名前は――」
朱崎が端末を指で弾く。画面に、文字化けした名前が浮かんだ。
『灰村■心』
「真ん中の字が読めん。
捨てられた字だそうだ。
名前まで廃棄物とは、ゴミ字の住人らしい」
朱崎は笑った。エルザは笑わなかった。笑う理由が見つからなかった。
「もう一点、報告があります」
エルザは自分の端末を差し出した。
「同時刻、同じ街区で、児童K-7-0219の減点が『誤検知』として取り消されています。
ロゴスの誤検知率は、過去十年で0.0000三パーセント。偶然の一致とは考えにくいです」
「ほう」
朱崎の目が、少しだけ細くなった。
「ゴミ字に、ロゴスをいじれるネズミがいるってことか。……面白い。両方まとめて訂正してこい、ノルム」
「了解しました」
「粛清の光は、三百秒後に落ちる。運が良ければ、お前が着く頃には全部終わっているさ」
「運は、計算に入れません」
エルザは一礼して、司令室を出た。
降下艇の発着場へ向かう廊下で、彼女はもう一度、端末の地図を開いた。
下層区第七街区。
見習いだったころ、一度だけ任務で降りたことのある場所だった。
どんな任務だったのかは、記録を開けばわかる。
開く必要はなかった。
終わった任務は、終わった任務だ。
エルザは端末を閉じ、降下艇に乗りこんだ。
白い機体が塔を離れ、ゆっくりと高度を下げていく。窓の外で、上層区の白がだんだん遠ざかり、中層区の灰色を抜けて、その下に、色の混ざりあった街が見えてきた。
錆の茶色。泥の黒。干した洗濯物の、ばらばらな色。そして、あちこちのゴミ山の上で、今朝の雨の結晶がちかちかと光っている。
整っていない、とエルザは思った。
それは、ただの事実の確認だった。少なくとも、彼女はそのつもりだった。
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