三百秒の逃走【後半】
水路は、浅かった。
膝までの泥水に足から突っこんで、思いっきり尻もちをつく。
泳げるかどうか以前の問題だった。
泥まみれのまま水路を走り、反対側の土手をよじ登る。
ドローンは当然のように上からついてくる。
こっちは泥まみれ、向こうは汚れひとつない白。
不公平にもほどがある。
『粛清まで、残り六十秒』
土手の上は、行き止まりだった。
目の前に、ゴミ山がそびえていた。
第七街区の東の端、俺の住んでいるあたりとは反対側にある、いちばん古いゴミ山だ。
鉄屑とプラスチックと、今朝の雨の結晶がきらきら刺さった、このあたりでいちばん高い場所。
まわりに家は一軒もない。
登れば、それこそドローンから丸見えだ。
振り返ると、ドローンが増えていた。
三機が五機。
白い卵が、半円を描いて俺を囲む。
『粛清まで、残り四十五秒』
頭の中の辞書をめくる。
チョベリバは、もう使えない。
残りは、一度も口にしたことのない言葉ばかりだ。
とりあえず、いちばん強そうなやつを選んだ。
「マジ卍!」
何も起きなかった。
ドローンが、首をかしげるみたいにレンズを傾けた。
「発話、検出。感情強度、基準値未満。……雑音として処理します」
だめだ。
気持ちが乗っていない。
というか、乗せようがない。
そもそも、卍ってなんだよ。
残響で聞いたことはある。
何かがすごいときに、若いやつらがやたら叫んでいた言葉だ。でも、何がすごいのか、俺にはさっぱりわからない。
わからない言葉に、本気なんか込められるわけがない。
『残り三十秒』
逃げ場はない。
手札もない。
時間もない。
――ああ、これは。
無理だ。
どう考えても無理だ。
この状況で、ガキとの約束を守って、無事に帰るなんて、絶対に、
「……超、」
腹の底から、本気の「無理」がせり上がってきた。
「――MMッ!!」
超マジ無理。
九〇年代の、もうひとつの捨てられた言葉。
紫色の結晶が、俺の口から噴き出した。
「超」「M」「M」。
三つの文字が弾けて、霧みたいに広がり、五機のドローンを丸ごと包む。
ローターの回転が、目に見えて落ちた。
「追跡を、継続……」
真ん中のドローンが言った。
声に、さっきまでのきれいな張りがない。
「……継続、困難。対象、遠い。足、ない。……マジ、無理」
一機、また一機と、ドローンがふらふらと高度を下げていく。
最後の一機は、地面すれすれで「もう、帰りたい」とつぶやいて、ゴミ山の斜面にころんと転がった。
壊れていない。
でも、完全にやる気をなくしている。
なんだこれ。
めちゃくちゃ効くじゃねえか。
『新たな廃語を検知。
発話地点を再特定中。粛清まで、残り四十秒』
延びた。
新しい言葉を叫んだから、ロゴスが俺の居場所を計算しなおしている――たぶん、そういうことだ。
理屈はあとで考える。
笑ってる場合じゃない。
俺はゴミ山の裾を回りこんで、反対側へ走った。
そこに、錆びた格子の蓋がある。
古い排水路の入り口だ。
ガキの頃から知っている。
ここには、マイクも、ドローンの目も届かない。
蓋をこじ開けて、真っ暗な穴に体を押しこむ。
『三』
格子を閉める。
『二』
息を止める。
『一』
世界が、真っ白になった。
音はなかった。
格子の隙間から、ゴミ山の向こうに、まっすぐな光の柱が立つのが見えた。
さっきまで俺がいた土手の上、ロゴスが最後に俺を見失った場所の、ちょうど真上。
光は雪みたいに静かに降りそそいで、三秒で消えた。
そっと格子を持ち上げる。
土手を中心に、五十メートルの範囲だけが色を失っていた。
ゴミ山の手前の斜面に刺さっていた今朝の雨の結晶が、全部、ただの透明なガラスに変わっている。
耳を近づけても、もう残響は聞こえない。
言葉だけが、きれいに抜き取られていた。
あそこに人がいたら、と思うと、胃がひっくり返りそうだった。
「……生きてる」
声に出してみた。
ちゃんと出た。
俺の言葉は、まだ俺のものだった。
ポケットの中で、何かが固い。
取り出すと、婆さんにもらった干物だった。
泥水に浸かったのに、カチカチのまま。
なんとなく、かじってみた。
しょっぱかった。この街で食ったものの中で、いちばんうまかった。
膝から力が抜けて、俺は排水路の縁にへたりこんだ。
勝った。
たぶん。
五機のドローンを腑抜けにして、光をかわした。
この街で、そんなことをしたやつはたぶんいない。
あとはタクトのところに帰って、約束どおり――
頭上で、また音がした。
羽音じゃない。
もっと重い、空気を押しつぶすような音。
見上げると、上層区の方角から、細長い白い機体が降りてきていた。
ドローンとは比べものにならない大きさだ。
機体はガラスになったゴミ山の上でぴたりと止まり、腹の扉を開いた。
誰かが、飛び降りた。
ガラスの山に、音もなく着地する。
背の高い女だった。
白と紺の、軍服みたいなスーツ。
銀色の髪を、一本の乱れもなくまとめている。
顔立ちは、作り物みたいに整っていた。
そして、その顔には、何の表情もなかった。
女は、ガラスになったゴミ山を一度だけ見回した。
転がっている五機のドローンに目をやり、それから――まっすぐに、俺が隠れている格子のほうを向いた。
「ドローンが最後に記録した位置。排水路の入り口までの距離。人間の脚力」
独り言みたいに、淡々と言う。
「計算上、あなたはそこにいます」
鈴の声じゃない。
人間の声だった。
でも、ドローンよりずっと冷たかった。
「校閲局、一等治安官。エルザ・ノルムです」
女は、白い手袋をはめた手を、胸の前でそっとそろえた。
「下層区第七街区における廃語の発話者として、あなたを――訂正します」
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