三百秒の逃走【中盤】
ロゴスは、すぐに俺を見つけた。
頭の上で羽音がした。
見上げると、白い卵形が三つ、屋根の高さで俺を追ってきている。
校閲ドローン。
さっき一機壊したから、今度は三機だ。
わかりやすくて腹が立つ。
『粛清まで、残り二百十秒』
「数えなくていいっつってんだろ!」
叫んでも、スピーカーは聞いちゃいない。
走りながら考える。
下層区の電柱には、ほぼ全部にマイクがついている。声を拾うための、灰色の小さな箱だ。
でも、マイクは息切れや足音までは追いかけてくれない。
俺を目で追えるのは、空を飛んでいるあいつらだけだ。
つまり、ドローンに見られている限り、ロゴスは俺の居場所を知っている。
こいつらを振りきらないと、どこへ逃げても光は追ってくる。
角を曲がると、大通りに出た。
白い作業着の列が、ゆっくりと道を掃いていた。
リビング・ドールたちだ。
二十人くらいが一列に並び、同じ速さで、同じ角度でほうきを動かしている。
ざっ。ざっ。ざっ。
二十本のほうきの音が、ぴったりそろっている。
この街でいちばん規則正しい音だ。
誰も顔を上げない。
誰も俺を見ない。
汗だくの男がガキみたいに走ってきても、ドローンが三機も頭の上を飛んでいても、ほうきの音は一拍もずれない。
一瞬だけ、考えた。
この列にまぎれこめば、ドローンの目をごまかせるんじゃないか。
すぐに、考えたことを後悔した。
光が落ちれば、半径五十メートル。
この人たちは、もう言葉を持っていない。
それでも、ここにいる。
巻きこんでいい理由にはならない。
列の端で、痩せた女の人がほうきを動かしていた。
どこかタクトに似た、丸い目をしていた。
その手首に、色あせた紐が巻いてあった。
ガキが字の結晶に穴をあけて、糸を通して作るような、不格好な腕輪。
ドールにそんなものを付けてやるのは、家族くらいしかいない。
毎朝、返事のない背中に手を振っているガキを、俺は一人知っている。
確かめる時間はなかった。
確かめたら、たぶん足が止まる。
俺は大通りを避けて、反対側の路地に飛びこんだ。
『粛清まで、残り百八十秒』
振りきる方法は、一つしか思いつかなかった。
さっきと同じことをやればいい。
路地を抜けた先、下層区を横切る古い水路にかかった橋の上で、俺は足を止めた。
振り返る。
三機のドローンが、橋の手前でぴたりと止まった。
空中に、きれいな三角形を作って。
こんなときまで整列しやがる。
この街は、追いかけっこにまで推奨の隊形があるらしい。
赤いレンズが三つ、並んで俺を見ている。
いいぜ。まとめて相手してやる。
腹の底に、さっきの怒りを呼び戻す。
ハナの顔。タクトの腕。
輪になって見ているだけの大人たち。
道を掃く、言葉のない人たちの列。
「チョベリバ――ァッ!!」
声が、青い結晶の文字になって飛んだ。
――はずだった。
文字は、出た。
でも、さっきより明らかに小さくて、薄くて、遅い。くしゃみのあとの、二回目のくしゃみみたいな勢いのなさだった。
結晶の弾は、真ん中のドローンの横っ腹をかすめて、機体をぐらりと傾けた。
それだけだった。砕けない。ひびすら入らない。
「廃語『チョベリバ』」
傾いたドローンが、平然と体勢を立て直した。
「本日、本区域にて使用済み。学習済みです。効果、半減」
「……学習、済み?」
嫌な汗が背中を流れた。
そういうことか。
ロゴスは、一度聞いた言葉を覚える。
最初の一発は「知らない言葉」だったから効いた。
二発目は、もう「知ってる言葉」だ。
いや、待て。
半減ってことは、まだ半分は残ってる。
「チョベリバ!!」
三発目。
今度は、文字すら出なかった。
俺の声は、ただの声として、水路の上をむなしく渡っていった。
「照合完了」
ドローンが、丁寧に答えた。
「廃語『チョベリバ』。
意味、最悪。――貴重なご意見として承ります。
今後のサービス向上に役立てます」
「ご意見じゃねえ! あとサービスってなんだ!」
「承りました。なお、あなたの不適切な語調の記録は、本日二回目です」
「数えんな!」
「三回目です」
三機のドローンが、そろって前に出た。
俺は一歩下がる。
背中が、橋の欄干に当たった。
『粛清まで、残り百二十秒』
同じ言葉は、二発目で半分。
三発目で、ゼロ。
――『おなじ ことばは』
爺さんが書こうとしていたのは、これだったんだ。
「先に言えよ、爺さん……!」
いや、言えないんだった。
だから書いてくれたんだった。
それをタクトが踏んだんだった。
誰も悪くない。強いて言えば、間が悪い。
覚えた。覚えたよ、くそったれ。
問題は、覚えたところで、手札が一枚減ったってことだけだ。
頭の中の辞書には、まだ言葉が残っている。
五年分の残響で集めた、捨てられた言葉たち。
でも、実際に叫んだことがあるのは、今日のチョベリバだけだ。
残りは全部、聞いただけ。
知っているだけ。
使い方もわからない。
ロゴスが言葉を覚えるなら、俺はまだ何も覚えちゃいない。
俺は欄干に足をかけた。
泳げるかどうかは知らない。
この街の水路で泳いだやつなんて、聞いたこともない。
でも、ドローンは水に潜れない。
それだけ知っていれば十分だ。
「知るかよ、もう!」
飛んだ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
よろしければ、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




