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バグワード・バザー〜死語しか使えない底辺の俺が、完璧な管理都市をチョベリバにしてやる〜  作者: 則本潮


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三百秒の逃走【前半】

三百秒あれば、カップ麺が一個できて、さらに二分余る。


そういうどうでもいい計算でもしていないと、足が止まりそうだった。


『粛清まで、残り二百七十秒』


下層区じゅうのスピーカーが、律儀に秒を読み上げる。


俺はタクトを小脇に抱えたまま、路地を走っていた。


走る俺の前で、窓が次々と閉まっていく。

パタン、パタン、パタン。

誰も何も言わない。

ただ、俺が通る道すじにそって、窓という窓が順番に閉じていく。

まるで、街じゅうが「うちには来るな」と言っているみたいだった。


まあ、そうだろう。俺だって逆の立場なら閉める。


ただ一軒だけ、閉まらない窓があった。


市場通りで音のない拍手をくれた、魚売りの婆さんの家だ。

婆さんは窓から腕を突き出して、俺の胸に何かを押しつけた。

反射で受け取る。


干物だった。


カチカチに乾いた、小魚の干物が一本。


「……なんで干物?」


婆さんは答えない。

答えたら減点だから。

ただ、しわだらけの顔で、ぐっと親指を立てた。


意味はわからない。

わからないが、とりあえずポケットに突っこんだ。

たぶん、この街でいちばん無口な「がんばれ」だった。


洗濯物をくぐり、崩れた塀を飛び越え、誰かの家の台所を勝手に通り抜ける。

鍋をかき混ぜていたおばさんが、声も出さずに目だけで「出ていけ」と言った。ごもっともだ。


「にいちゃん、さっきのもう一回やって」


「できるか!」


「なんで? かっこよかったのに」


「かっこいいとかじゃねえんだよ。

あれのせいで、今、空から光が降ってこようとしてんだぞ」


「じゃあ、光もチョベリバしたら?」


「光にチョベリバしてどうすんだよ」


言いながら、ちょっとだけ「効くのか?」と考えてしまった自分が嫌だった。


「にいちゃん、どこいくの?」


「ラジ爺んとこだ」


「なんで?」


「おまえを置いてくためだよ」


タクトが脇の下でじたばたした。


「やだ! おれも行く!」


「行き先なんかねえんだよ。いいか、よく聞け」


走りながら、できるだけ短く説明した。


あの光は、死語を叫んだ「俺」を狙って落ちてくる。俺の頭のチップは壊れているから、ロゴスは俺の居場所を、街じゅうのマイクやドローンの目で探すしかない。

三百秒かけて俺を見つけて、俺が立っている場所に光を落とす。


つまり、光が落ちるとき、俺のそばにいたやつは全員巻きこまれる。


「だから、おまえは俺から離れてろ。五十メートル以上だ」


「ごじゅうめーとるって、どのくらい?」


「市場通りの端から端までくらいだ」


「ちかっ」


「近いんだよ。だから気をつけろって話だ」


「じゃあ、にいちゃんが遠くまで逃げればいいんだね」


「……おまえ、たまに頭いいな」


正直に言えば、作戦なんてなかった。


この五年、俺がうまくなったのは逃げ方だけだ。

ドローンの巡回の時間、マイクの死角、大人に見つからない近道。

全部、言葉を使わずに生きるための知恵だった。

言葉を使ったあとの逃げ方なんて、誰も教えてくれなかった。


タクトは急に静かになった。

それから、小さな声で言った。


「……かあちゃんも、光にあたったの?」


足が、ほんの一瞬だけもつれた。


タクトの母親がドールになったのは、二年前だ。

光だったのか、ドローンだったのか、俺は知らない。訊いたこともない。


「知らねえ」


正直に言った。


「でもな、おまえまでそうはさせねえ。だから言うこと聞け」


タクトは何も言わずに、俺のジャージをぎゅっとつかんだ。


『粛清まで、残り二百四十秒』


ラジ爺のバラックが見えた。

爺さんは戸口に座って、もう地面に何か書いて待っていた。


『はでに やったな』


「見てたのかよ」


爺さんは、にやりともせずにうなずいた。

それから地面の字を手のひらでかき消して、新しく書いた。


『ガキは まかせろ』


その指先が、かすかに震えていた。


当たり前だ。

光が落ちれば、爺さんだって巻きこまれるかもしれない。

俺の騒ぎにかかわったと知られれば、スコアだって削られる。

それでも爺さんは、戸口から一歩も引かずに俺を待っていた。


俺はタクトを下ろした。タクトは俺のジャージの裾をつかんで離さない。


「にいちゃん、帰ってくる?」


「当たり前だろ」


「ほんと?」


「ほんとだ。帰ってきたら、さっきの続き教えてやる。死語の使い方」


タクトの指が、ゆっくりほどけた。


爺さんはタクトの肩を抱き寄せながら、もう片方の指で、急いで地面に何か書きはじめた。


『おなじ ことばは』


そこまで書いたところで、タクトが一歩下がって、その字を思いっきり踏んだ。


「あ」


「あ」


爺さんと俺の顔が、同時に「あ」の形になった。


続きを訊いている時間はなかった。

爺さんは「もういい、行け」とばかりに手を振って、タクトを家の中に引っぱりこむ。

戸が閉まる直前、地面に最後の一行が書き殴られるのが見えた。


『いけ』


俺は走りだした。


背中のほうで、戸の隙間からタクトが顔だけ出しているのがわかった。

声は出さない。

出したら減点だと、さっき身にしみたはずだ。


かわりに、口だけが大きく動いていた。


が、ん、ば、れ。


読唇術なんかできなくても、それくらいは読める。


同じ言葉は――なんだ。

何が言いたかったんだ、爺さん。


最後までお読みいただきありがとうございました。

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