俺はチョベリバと叫んだ【後半】
息を吸う。
腹の底から、五年分の何かがせり上がってくる。
怒りだ。たぶん。
この街に。ロゴスに。黙って見ている大人たちに。
そして、黙って見てきた五年間の俺自身に。
ああ、そうだよ。最悪だ。最悪の朝だ。
最悪のことを最悪だと言うのに、この街には言葉が足りない。
だったら――持ってくるしかねえだろ。
ゴミ捨て場から。
「チョベリバ」
最初の一音で、空気が割れた。
「――ァァァァァッ!!」
叫んでいた。腹も喉も、全部持っていかれる声だった。
九〇年代の終わりごろ、街の女子高生たちが作った言葉だという。
「超・ベリー・バッド」
最悪の、そのまた上。
大人に眉をひそめられ、数年で誰も言わなくなり、まともな辞書に載る前に捨てられた、とびきり安っぽい言葉。
その安っぽさが、今は最高に頼もしかった。
声が、目に見えた。
俺の口から飛び出した音が、空中でばきばきと凍りつき、青い結晶の文字になる。
「チ」「ョ」「ベ」「リ」「バ」――五つの文字が弾丸みたいにまっすぐ飛んで、ドローンの赤いレンズに突き刺さった。
「――ちょ、ちょべ、ちょべり、」
鈴の声が、裏返った。
「未定義。未定義。該当語なし。照合――照合、しょ、しょうごう、ふのう――」
機体に、ひびが走った。
卵の殻を割るみたいに。
ローターが一枚ずつ止まり、アームがでたらめな方向にねじれて、タクトの腕からするりと外れる。
「チョ、ベリ、バ、とは、なんで、す、か」
最後にそう訊いて、ドローンは空中で砕けた。
白い破片が、雨みたいに降った。
――静かになった。
もともと静かな街だ。
でも、さっきまでとは違う静けさだった。
輪になっていた大人たちが、全員、口を開けて俺を見ている。
輪の端で、魚売りの婆さんが両手を打ち合わせた。
打ち合わせる寸前で、ぴたりと止めた。
音のしない拍手だった。
一回、二回、三回。
この街でいちばん小さな、いちばんでかい喝采だった。
タクトが地面に座りこんだまま、俺を見上げた。
握りしめていた手が開いて、「ぴえん」の結晶がころりと転がる。
俺はそれを拾って、ポケットに突っこんだ。
売り物じゃない。
こいつはもう、子どもに持たせちゃいけない。
「……にいちゃん、いまの、なに?」
「死語だよ」
息が切れていた。
膝が笑っている。
たった五文字で、全力疾走したあとみたいだ。
「おまえが言った『ぴえん』と同じ、捨てられた言葉だ。でもな、使い方さえ間違えなきゃ――」
言い終わる前に、街が鳴った。
下層区じゅうの錆びたスピーカーが、いっせいに同じ声を吐き出した。
『警告。下層区第七街区にて、感情強度の基準値を超えた廃語の発話を検知』
さっきのドローンと同じ、鈴の声。
『発話地点を特定中。粛清まで、残り三百秒』
大人たちが蜘蛛の子を散らすように消えた。
足音ひとつ立てずに。
さすが、慣れている。
粛清の光。
本気の死語を街じゅうのマイクが拾うと、声の出どころめがけて空から落ちてくる、まっ白な光だ。
人は死なない。
ただ、半径五十メートルにいる全員が、言葉を根こそぎ消される。ハナみたいに。
「やっべ」
俺はタクトを小脇に抱えた。
「にいちゃん、それも死語?」
「これは現役だ、たぶん! 黙ってろ、舌かむぞ!」
市場通りを抜けて、路地に飛びこむ。
洗濯紐をくぐり、ドラム缶を蹴り、干してある誰かのシャツを顔面で受け止めて、そのまま走る。
三百秒。
五分。
この街で生きてきた人間なら、光の届かない場所まで逃げきれる時間だ。
ただし、子どもを抱えていなければ。
「にいちゃん、光ってなに色?」
「白だ!」
「きれい?」
「見たら終わりだ!」
走り出してしばらくして、スピーカーがもう一度鳴った。
『通知。個体番号K-7-0219の減点は、誤検知として取り消されました。現在スコア、三十一』
「……は?」
思わず足が止まりかけた。路地の出口、市場通りの向かい側が見えるところまで来ていた。
取り消し? ロゴスが? 間違いを認めた?
この街に生まれて十九年、そんなアナウンスは一度も聞いたことがない。
脇の下でタクトが「さんじゅういち!」と嬉しそうに叫んだ。おい、それ減点されるぞ。
何が起きた。
答えを探すみたいに、俺は顔を上げた。
市場通りの向かい、崩れかけた三階建ての屋根の上に、白衣の子どもがいた。
中学生くらいの、ちっこい女だった。
ぶかぶかの白衣の袖から、缶コーヒーを持った手だけが出ている。
目の下にくっきりとクマ。もう片方の手には、見たことのない形の端末。
そいつは俺と目が合うと、缶コーヒーを一口すすって、口だけ動かした。
声は聞こえない。読唇術なんて、俺にはできない。
なのに、なぜか、はっきりと読めた。
――きょうも、かっこいい。
「……誰だよ、おまえ」
瞬きをしたら、もういなかった。
『粛清まで、残り二百八十秒』
スピーカーの声で、我に返る。
最悪だ。
最悪の朝だ。
妹の面会日で、近所のガキがさらわれかけて、五年ぶりに死語を叫んで、空からは光が降ってくる予定で、屋根の上には知らない女がいる。
おまけにそいつは、たぶん俺のことを前から知っている。
こういうのを、昔の人はなんて言ったんだっけな。
「……チョベリバ」
今度は、ため息まじりの棒読みで。
何も起きなかった。ただ、ちょっとだけ笑えた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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