俺はチョベリバと叫んだ【中盤】
保管所から市場通りへ戻る途中で、人だかりにぶつかった。
市場通りは、下層区でいちばん「うるさい」場所だ。
もちろん声はない。
売り手は指で値段を示し、買い手は首を振って値切り、交渉がまとまると、お互い深々と会釈する。
会釈の角度にまで推奨値がある街なのだ。
通りの角に立つ標識には、今日の推奨表現が光っている。
『本日もよろしくお願いいたします』
誰も言わないのに。
その市場通りの真ん中に、輪ができていた。
十人くらいの大人が遠巻きに、息を殺して立っている。
輪の中心に、タクトがいた。
九歳。近所のガキだ。
いつも鼻を垂らして俺のあとをついてきて、字の拾い方を盗もうとする。
先週なんか「にいちゃん、死語ってほんとにあるの? 食べられる?」と真顔で訊いてきた。
食えるならとっくに食ってる。
母親は二年前にドールになった。
今は昼間、この通りをほうきで掃いている。
タクトは毎朝、その背中に向かって手を振る。
返事がないのをわかっていて、それでも振る。
俺がハナの「はい」を聞きに行くのと、たぶん同じ理由で。
そのタクトが地面にへたりこみ、両手で何かを握りしめていた。
指の隙間から、青白い光が漏れている。
結晶だ。それも、中身入りの。
「……ぴえん」
タクトの口から、ぽろりとこぼれた。
泣いてはいなかった。
残響に引っぱられて、口真似しただけだ。
結晶に触った子どもがよくやる。
中に入っていた誰かの声を、意味もわからずなぞってしまう。
輪の外側で、誰かが小さく息をのんだ。
その音が合図だったみたいに、空から羽音が降りてきた。
校閲ドローン。
白い卵形の機体に、四枚のローター。
腹には赤いレンズが一つ。
街のどこにでもいて、いつでも聞いている、ロゴスの耳と口。
輪を作っていた大人たちが、そろって一歩下がった。ぴったり同じ歩幅で。
校閲中のドローンから三メートル。
それが推奨距離だと、全員の体が覚えている。
「発話を校閲します」
鈴みたいにきれいな声だった。
五年前も、この声だった。
「対象、個体番号K-7-0219。検出語、『ぴえん』。分類、廃語。減点、五百。現在スコア、零」
廃語。ロゴスは死語をそう呼ぶ。タクトの顔から血の気が引いた。
子どもは仮スコア五百から始まる。
下層区のガキは、笑ったり泣いたりするたびに削られて、九歳になる頃にはたいてい二桁しか残っていない。
死語ひとつで、まとめて吹き飛ぶ。
ゼロになった人間は、校正所に運ばれる。
言葉を削られて、ハナみたいになる場所だ。
「規定により、校正所へ移送します。抵抗は推奨されません」
ドローンの腹から、細い金属のアームが伸びた。
周りの大人たちは動かなかった。
動けないんじゃない。
動かないのが正解だと、この街で生き残った人間はみんな知っている。
タクトが、こっちを見た。
輪の外で突っ立っている俺を、まっすぐに見た。
――あの日のハナと、同じ目だった。
「待てよ」
声が出ていた。
ドローンのレンズが、ゆっくりとこちらを向く。
「発話者を照合します。……照合不能。個体名、灰村■心。スコア、該当なし」
「その子を離せ。まだガキだ、意味もわかってねえんだよ」
「発話内容に禁止語は含まれません。ただし語調に不適切な強度を検出。推奨表現――『その児童の処遇について再考を求めます』」
「うるせえ! 離せっつってんだろ、このポンコツ!」
「推奨表現――『その児童の処遇について再考を求めます』」
俺は歯を食いしばった。それから、言われたとおりに言ってやった。
「……その児童の処遇について、再考を求めます」
「再考しました」
〇・二秒だった。
「結論に変更はありません。ご協力ありがとうございます。なお、先ほどのあなたの語調は記録されました。本日の推奨表現は『本日もよろしくお願いいたします』です」
「誰がよろしくするか!」
「記録しました」
まるで効かない。
当たり前だ。
「うるせえ」も「ポンコツ」も、丁寧なお願いも、ロゴスは全部知り尽くしている。
辞書に載っている言葉は、怒鳴ろうが頭を下げようが、ロゴスにとってはただの想定内のノイズだ。
こいつを止められるのは、こいつが知らない言葉だけ。
それがどこにあるかは、わかっている。ポケットの中じゃない。頭の中だ。
五年分の残響で作った、臆病な辞書。
チョベリバ。超MM。マジ卍。激おこぷんぷん丸。どれも安っぽくて、くだらなくて、とっくに誰も使わなくなった言葉。
でも、ロゴスはそれを知らない。
知らないものは予測できない。
予測できないものは、止められない。
理屈はわかっている。
五年前から、ずっとわかっていた。
わかっていて、一度も口にしなかった。
喉が、ひゅっと鳴った。
五年前の市場。
振り向いたハナが、得意げに笑っていた。
にいちゃんに教わった、かっこいい言葉。
人前で言ってみたくて、たまらなかった顔。
――言うな。
あれは俺が教えた。冗談のつもりで。面白がって。
言葉なんて、人を壊すだけだ。
だから俺は拾って売るだけにした。
二度と使わないと決めた。
決めて、五年間ずっと黙ってきた。
アームが、タクトの細い腕をつかんだ。
「やだ」
タクトが言った。
「やだ、やだ……ケイシンにいちゃん……!」
その声で、決めていたものが全部、どうでもよくなった。
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