ゴミ字のバザー【前半】
この三日間でわかったことが、二つある。
一つ。
校閲局は、本気で俺を探している。
下層区の空を飛ぶドローンの数は、ふだんの倍になった。
夜になると、あの白い降下艇が低く街の上を回っていく。
二つ。
黄泉坂カナは、俺の家の床下に住んでいた。
「……いつからだ」
「半年くらい前」
三日前の夜、排水路から家に戻った俺の目の前で、カナは床板を一枚、ぱかっと外してみせた。
その下には、毛布と、懐中電灯と、缶コーヒーの空き缶が三十個くらいと、見たこともない機械がぎっしり詰まった、小さな秘密基地があった。
「家賃、払ってないよな」
「払ってない。そのかわり、雨漏りは直しておいた」
「あれおまえか!」
先月、突然屋根の雨漏りが止まって、俺は奇跡だと思っていた。
奇跡じゃなかった。
床下の住人の仕業だった。
「出てけ」
「やだ」
「出てけって」
「今、外に出たらドローンに見つかる。見つかったら、あなたのこともバレる。それでもいい?」
ぐうの音も出なかった。
「……で、その機械はなんだよ」
「ラジオ」
「嘘つけ」
「ほんと。ロゴスの声を聞くための、ラジオ。上の街で今なにが話されてるか、だいたいわかる」
上層区の通信を盗み聞きする機械を、こいつは「ラジオ」と呼んでいる。
床下にそんなものを置かれていたと知って、俺はしばらく自分の家の床を歩けなかった。
というわけで、この三日間、俺とカナは同じ屋根の下で暮らしている。
正確には、俺が床の上で、カナが床の下だ。
夜中に床下から「……寝顔もかっこいい」とつぶやく声が聞こえたときは、本気で引っ越しを考えた。
「おまえ、そういうのは心の中で言え」
「言ったら減点だから、外では言わない。でも、ここはマイクが拾わない」
「なんで知ってんだよ」
「調べた」
この家は路地の行き止まりにあって、いちばん近い電柱まで少し距離がある。
だから、家の中の小声くらいは拾われない。
俺は十九年この街に住んでいて、そんなこと考えたこともなかった。
二日目の昼には、ドローンが一機、路地の入り口まで降りてきた。
俺が窓から身を引くより早く、床下から空き缶が一本転がり出て、窓の外にぽとりと落ちた。
ぷしゅっ、と白い煙。ドローンはしばらく煙の中でくるくる回ってから、首をかしげるような動きで飛んでいった。
「……便利だな、それ」
「あと七本しかない。大事に使って」
「使ってんのおまえだろ」
その夜、俺は床に寝転がったまま、床板の隙間に向かって訊いた。
「なあ。あの治安官の前で、なんで俺の超MMは半分しか出なかったんだ」
「その日、二回目だったから」
即答だった。
「ロゴスは、一日のうちに聞いた言葉を覚える。夜になったら、ほとんど忘れる。でも、同じ日のうちは、覚えたまま」
「つまり、一日一回目がいちばん強い」
「そう。それと、一度も使われたことのない言葉は、もっと強い」
「……あの治安官に勝つには、新しい言葉がいるってことか」
床下が、少しだけ静かになった。
「三日後の夜、バザーが開くよ」
そう言ったきり、カナは懐中電灯を消した。
「……おまえ、ほんとに何者なんだよ」
暗闇の中で、缶を開ける音がした。
「二十五歳です」
「それは知ってる」
結局、何者なのかはわからないままだ。
わかっているのは、俺を助けたこと、俺の名前の字を読めること、それから、床下で缶コーヒーばかり飲んでいることくらいだ。
怪しい。どう考えても怪しい。それでも追い出す気になれないのは、たぶん、この三日間で初めて、家の中で誰かと話しながら眠れたからだと思う。
⭐︎⭐︎⭐︎
三日目の朝、俺はようやく、タクトとの約束を果たしに行った。
ラジ爺の家の裏で、タクトは俺の顔を見るなり飛びついてきた。
声は出さない。ちゃんと我慢している。
そのかわり、ジャージの胸に顔をぐりぐり押しつけてきた。
鼻水がついた。
「約束どおり来たぞ。死語の使い方、教えてやる」
タクトの目が、きらっと光った。
「チョベリバ?」
「いや。おまえには、まだ教えない」
目の光が、しゅんと消えた。
「なんで!」
「声がでかい。……いいか。おまえのスコアは、三十一だ。死語をひとつでも口にしたら、またゼロになる。この前は、たまたま運がよかっただけだ」
運じゃなかったことは、言わなかった。
床下の住人の話は、ややこしすぎる。
「だから、教えるのは一つだけ。死語は、本気のときにしか使うな。本気じゃないなら、ただの音だ。ただの音で、自分の言葉を捨てるな」
タクトは、よくわからない顔をしていた。
まあ、そうだろう。俺だって、五年かかった。
そのかわり、ラジ爺のやり方を教えた。
地面に指で書く方法だ。土の上の字なら、ロゴスには読めない。
タクトはしばらく考えてから、地面に大きく書いた。
『にいちゃん かっこいい』
ラジ爺が、隣で声を殺して笑っていた。
床下の住人と、感想が完全に一致していた。
タクトはそれから、地面にもう一行、小さく書き足した。
『かあちゃんに うでわ つくった』
字の結晶に穴をあけて、糸を通した腕輪。
三日前、道を掃くドールの列の中で見た、あの手首の紐が頭に浮かんだ。
「……そうか。似合ってたぞ」
タクトは「見たの?」という顔で俺を見上げて、それから、すごく嬉しそうに笑った。
声は出さずに。
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