ゴミ字のバザー【中盤】
ゴミ字の闇市――バザーは、言葉の雨の三日後の夜に、一晩だけ開く。
場所は、下層区のずっと地下。
大昔に使われていた、古い貯水場の跡だ。
排水路と同じで、ここにはマイクがない。
ドローンも入ってこられない。
つまり、この街でたった一か所、人間が声を出していい場所だ。
「……うるさっ」
貯水場に降りたとたん、思わず声が出た。
声。声。声。何百人もの人間が、しゃべって、笑って、値切って、怒鳴っている。
三日前まで無言で会釈していた市場のおっさんが、ここでは唾を飛ばして客と言い争っていた。
ふだん能面みたいな顔の洗濯屋のおばさんが、腹を抱えて笑っていた。
天井の高い、丸い石の部屋だった。
壁のあちこちにランプが吊るされていて、その明かりが、黒い水たまりにゆらゆら映っている。
声が天井に跳ね返って、何倍にもなって降ってくる。うるさい。でも、不思議と嫌じゃなかった。
ひと月に一晩だけ、この街の人間は、ここで人間に戻る。
「すごいだろ」と誰かに言いたかったが、カナはいなかった。
「人混み、苦手。留守番してる」
出がけにそう言って、床下に潜っていった。
あれだけ人のことを見張っておいて、肝心なところでついてこない。
よくわからないやつだ。
壁ぎわに、ござを敷いただけの店がずらりと並んでいる。
字の両替屋。
拾い物の機械の修理屋。
焼いた芋の屋台。そして、人だかりのできている一角があった。
「残響屋」だ。
客は字を払って、死語の結晶に一分だけ触らせてもらう。
結晶の中の、昔の誰かの気持ちを味わうために。
順番を待つ列の中に、上等な灰色のコートを着た男がいた。
顔を布で隠しているが、仕立てのいい靴でわかる。
中層区の人間だ。
ああいう連中が、俺の拾った結晶を高く買ってくれる。
男の番が来た。
結晶に触れたとたん、男の肩がびくっと震えた。
それから、しばらくして、コートの袖で目もとをぬぐった。
何の言葉だったのかは、わからない。
ただ、あの男は、上の街では一度も泣いたことがないんだろうな、と思った。
いちばん奥に、死語の結晶を売る店がある。
店の主は、いつも同じ人物だった。
ぶかぶかの黒いマントで全身を覆い、顔には真っ白な仮面。
ござの上には、青や紫や赤に光る結晶が、宝石みたいに並べられている。
背は低い。
そして、一言もしゃべらない。
この店主の声を聞いたやつは、誰もいない。
客の質問には、いつも結晶で答える。
「よう。売りに来た」
俺は「orz」の結晶をござの上に置いた。
店主は仮面の顔をかしげ、結晶を指でつまむと、べつの結晶をひとつ取って、俺の手のひらに乗せた。
触れた瞬間、残響が鳴った。
――まいどあり。
昔の、どこかの店の、威勢のいいおやじの声だった。
「……ほんと、変わった店だよな」
何年もここで結晶を売ってきたのに、俺はこの店主の名前も知らない。
ふと思いついて、訊いてみた。
「なあ、あんた、名前は?」
店主は、ござの上の結晶をひとつ選んで、俺の手に乗せた。
――ないしょ。
いたずらっぽい、どこかの女の子の声だった。
「……ずりいな、それ」
仮面の顔が、少しだけ上を向いた。
笑ったのかもしれない。
それから、俺はござの上をじっくり眺めた。
三日前、俺はエルザに完敗した。
手持ちの言葉は、全部その場で訳されて潰された。
あいつに勝つには、もっと強い言葉がいる。
訳される前に、相手の頭の中をひっくり返すような言葉が。
ござのいちばん端に、ひときわ濃い赤に光る結晶があった。
「それ、なんだ」
店主は、その結晶をつまんで、俺の手のひらに落とした。
――マジで、切れる、五秒前。
残響が鳴った。
女の子の声だった。
腹を立てて、それでも爆発する前に、自分で自分をなだめるみたいな、ぎりぎりの声。
「MK5……」
マジで切れる五秒前。九〇年代の、怒りの秒読み。
腹の底で、何かがぴりっと鳴った。
この言葉なら、わかる。
ここ三日、俺はずっと、切れる五秒前みたいな気分で生きていた。
「いくらだ」
店主は、さっき俺が置いた「orz」の結晶を指さし、それから、ひとつだけ指を立てた。
orzひとつと、交換。
「……安すぎねえか」
MK5は、たぶん九〇年代の上物だ。
二〇〇〇年代の、ありふれたorzひとつで釣り合うはずがない。
店主は答えない。かわりに、べつの小さな結晶をつまんで、俺の手に乗せた。
――お得意さまには、サービス。
古い呼び込みの声だった。
「お得意さまって、俺、ここで買うのは初めてだぞ。いつも売るだけで」
店主は、また答えなかった。
仮面の奥で、なにかがかすかに揺れた気がした。
最後に、店主は人さし指をMK5の結晶に当てて、それから、指を二本立ててみせた。
「……二?」
店主はうなずいた。
使い方は、二つある。
――たぶん、そう言っていた。
マントの裾から、ほんのかすかに、苦い匂いがした。どこかで嗅いだことのある匂いだった。
それが何の匂いだったか思い出す前に、店主はもう、ほかの客のほうを向いていた。
俺はMK5をポケットにしまって、もう一度だけ、騒がしい貯水場を振り返った。
笑い声。怒鳴り声。値切る声。泣き声。全部ごちゃまぜになって、天井に跳ね返っている。
この音が、地上にもあればいいのに。
そんなことを考えたのは、生まれて初めてだった。
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