ゴミ字のバザー【後半】
帰り道、ポケットのMK5が、ずっと熱を持っていた。
地下から地上に出ると、また音のない街に戻る。
さっきまでの騒がしさが、嘘みたいだった。
月が出ていた。こんな夜は、どうしても思い出す。
五年前のことだ。
俺は十四で、ハナは十だった。
母さんはまだ生きていて、俺はまだガベージ・コレクターじゃなかった。
ゴミ山で遊んでいたら、たまたま、青く光る結晶を拾った。
触ったら、知らない女の子の声がした。
――チョベリバ!
すごく楽しそうな声だった。
最悪だ、って意味の言葉なのに、言ってる本人は全然最悪じゃなさそうで、むしろ、最悪なことを笑い飛ばしているみたいだった。
俺はそれを、家に持って帰ってハナに聞かせた。
ハナは目をまんまるにして、何度も何度も結晶に触った。
「にいちゃん、これ、かっこいい!」
「だろ。最悪のときに言うんだぜ。チョベリバ! って」
冗談のつもりだった。
家の中なら、小声なら、誰にも聞こえない。
そう思っていた。
次の日。
市場で、ハナは干物屋のおばさんにお釣りをごまかされた。
たった一字。
ほんのささいなことだった。
ハナは振り返って、俺を見た。
得意げな顔で。
にいちゃんに教わった、かっこいい言葉を言う、最高のタイミングを見つけた、って顔で。
「チョベリバ!」
市場じゅうが、凍りついた。
羽音がして、白い卵形が降りてきた。
鈴みたいな声がした。
『検出語、「チョベリバ」分類、廃語。減点、五百。現在スコア、零』
子どもの仮スコアは、五百。
ハナは、たった一言で、ゼロになった。
『対象は児童。廃語の入手経路を調査するため、粛清を保留。校閲官を要請します』
ふつうなら、ドローンがそのまま校正所へ運んでいく。
でも、その日は違った。
十歳の子どもが、誰も知らないはずの古い言葉を知っていた。
校閲局はそれを重く見て、上層区から校閲官をひとり寄越した。
白い制服に、顔の半分を覆う銀色の面。
まだ若い、見習いの校閲官だった。
面のせいで、声はくぐもって聞こえた。
そいつは、ハナの前にひざをついて、静かに訊いた。
「その言葉を、誰から聞きましたか」
市場の大人たちの何人かが、俺のほうを見た。
俺の足は、地面に縫いつけられたみたいに動かなかった。
ハナは、一度だけ俺を見た。
それから、首を横に振った。何も言わなかった。
「やめろ!」
やっと声が出た。
俺は人垣を押しのけて飛び出した。
「やめろ、そいつは悪くない、俺が――」
ドローンのアームが、俺の肩を押さえつけた。
それだけで、十四歳の体は地面に縫いとめられた。
俺が叫んだのは、「やめろ」だった。
誰でも知っている、辞書に載っている、ありふれた言葉だった。
だから、何も起きなかった。
今ならわかる。
あのとき、もし俺が――。
いや、考えても仕方ない。
あのときの俺は、まだ何も知らなかった。
校閲官は、それ以上は訊かなかった。
白い手袋の手で、ハナの額にそっと触れた。
「訂正します」
この街の校閲官は、みんなそう言う。
マニュアルどおりの、決まり文句だ。
その手が額に触れる、ほんの直前。
ハナは、もう一度だけ俺のほうを見て、口を動かした。
何て言ったのか、聞こえなかった。
次の瞬間、ハナの目から、何かがすっと抜けていった。
「ハナ」
「はい」
「ハナ、俺だよ、わかるか」
「はい」
母さんは、その夜から寝こんだ。
二年後に死ぬまで、一度もハナの話をしなかった。
俺も、しなかった。
父さんは、そのころにはもういなかった。
俺が八つのとき、家族が下層区に落ちてすぐに、どこかへ消えた。
母さんは「古い言葉が好きな人だった」とだけ言った。
俺の名前に、あの捨てられた字を選んだのも父さんだったらしい。
もし父さんがいたら、あの日、何か言えたんだろうか。
考えても仕方ない。いないものは、いない。
それから五年。ハナの言葉は、「はい」と「いいえ」と「了解しました」だけだ。
――あの言葉を教えたのは、俺だ。
――ハナは、俺の名前を言わなかった。
――最後に、ハナは何て言ったんだ。
ポケットの中で、MK5が熱い。
マジで切れる五秒前。
俺はたぶん、五年前から、ずっとその五秒前のまま止まっている。
家の戸を開けたとき、下層区じゅうのスピーカーが、いっせいに鳴った。
『通達。校閲局より、下層区第七街区の全住民へ』
夜中の放送なんて、聞いたことがなかった。
路地の窓という窓に、明かりがつく。
『先日の廃語事案を受け、六日後、第七街区の全住民を対象とした一斉言語再審査を実施します。再審査の結果、基準を満たさない者は、その場で校正の対象となります』
戸口で、足が止まった。
一斉、再審査。
第七街区の全員。
タクトも、ラジ爺も、魚売りの婆さんも。
スコアがぎりぎりで生きている、この街の全員だ。
『なお、本件の指揮官は、追って通知します。以上』
放送が切れた。
静まりかえった部屋の真ん中で、床板が一枚、ぱかっと持ち上がった。
床下から、カナが顔だけ出した。
「……六日後だって」
「聞いてた」
「どうする?」
俺はポケットのMK5を握りしめた。
決まってる。もう、五秒前で止まっているのはやめだ。
六日。
そのあいだに、あの完璧な治安官にも訳せない言葉を、見つけてやる。
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