モーレツですわー!【前半】
綺羅星ミヤビの朝は、だいたい負けから始まる。
上層区グラマー。
綺羅星家の朝食室には、窓の外の雲より白いテーブルクロスがかかっている。
並ぶのは、湯気の立つ紅茶と、焼きたてのパンと、そして――前日の言語信用スコアだ。
「アヤメ、九百九十六」
母が、天気予報でも読むような声で言った。
「カスミ、九百九十四」
長女のアヤメは、紅茶のカップを音もなく置いた。
次女のカスミは、パンをちぎる指の角度まで美しい。
「ミヤビ、九百三十一」
テーブルの空気が、ほんの少しだけ冷えた。
上層区の基準は八百。
九百三十一は、立派な数字だ。
下層区の住人なら、一生かかっても届かない。
けれど、この家では違う。
この家で九百五十を切るのは、ミヤビだけだった。
「昨日のあなたの発話、予測一致率は八十九パーセントでした」
アヤメが言った。
責めているのではない。
上層区の人間は、人を責めるための言葉を、そもそもあまり持っていない。
ただ事実を述べているだけだ。
それが、いちばん効く。
「存じておりますわ、お姉さま」
ミヤビは、にっこり笑って答えた。
綺羅星家は、上層区でも指折りの財閥だ。
その家柄のおかげで、娘たちには「ですわ」「ございます」といった、古風な言葉づかいが特別に許されている。
家柄用の特権語彙。
上層区でも、ほんのひと握りの家にしかない。
もっとも、姉たちはほとんど使わない。
使う必要がないからだ。
使っているのは、ミヤビだけだった。
言葉の端っこくらい、姉たちに勝てるものが欲しかった。
「ところで」
カスミが、薄い端末を指でなぞった。
「下層区第七街区の廃語事案。担当はノルム家のエルザさんだそうです。それでも、まだ捕まっていないとか」
「エルザ・ノルムが、取り逃がした……?」
ミヤビは、思わずパンを落としかけた。
エルザ・ノルム。スコア九百九十八。
史上最年少の一等治安官。
ミヤビと同じ養成院の、二期上の先輩だ。もちろん、口をきいたことは一度もない。
「ミヤビ。あなたは関わらないように」
アヤメが、紅茶を見つめたまま言った。
「エルザさんでも手こずる相手です。あなたが行っても、綺羅星の名前に傷がつくだけですから」
「……かしこまりましたわ」
ミヤビは、にっこり笑った。
笑ったまま、テーブルの下で、ナプキンをぎゅっと握りつぶした。
⭐︎⭐︎⭐︎
自室に戻ると、ミヤビは扉に鍵をかけ、衣装棚のいちばん奥から帽子箱を取り出した。
箱の底は、二重になっている。
その下に隠してあるのは、一冊の古いノートだった。
紙だ。
三十八年前の大校正で、紙の文書はすべて禁止された。
持っているだけで重罪。
見つかれば、綺羅星家の娘でも、ただでは済まない。
亡くなった祖母が、こっそりミヤビに遺してくれた日記だった。
ミヤビは床に座りこみ、そっとページをめくった。黄ばんだ紙に、几帳面な文字が並んでいる。
『今日の夕焼けは、モーレツにきれいだった』
『あの人の服、とてもナウい』
『ドロンしようと思ったら、見つかった』
意味は、半分もわからない。
辞書チップに聞くことはできない。
聞いた瞬間に、こんな言葉を知っていることがバレてしまう。
それでも、ミヤビは何度も何度も、このページを読み返してきた。
声には出さずに。唇だけを動かして。
モーレツ。
その言葉を口の中で転がすと、胸の奥が、ぽっと熱くなる。
姉たちの完璧な標準語では、一度も感じたことのない熱さだった。
ミヤビは日記を閉じて、帽子箱の底に戻した。
それから、ベッドの上の大きな箱を開けた。
――第七世代フィルタースーツ《絢爛》
綺羅星重工の特注品。
自動訂正モジュール搭載。
自動訂正モジュール。
エルザ・ノルムの「訂正」を、機械でまねする装置だ。過去の事案記録から廃語の標準語訳を読みこんでおき、相手が口にした瞬間に、スーツが勝手に訳して無効にする。
事案記録は機密だが、綺羅星の名前を使えば、手に入らないものはほとんどない。
読みこんだ廃語は、四つ。
チョベリバ。マジ卍。超MM。激おこぷんぷん丸。
ミヤビは、部屋着のボタンを外した。
するりと床に落ちた布の下から、白いレースの下着があらわれる。
胸もとに、小さなリボンがひとつ。
今朝、いちばん上等なのを選んだ。
誰に見せるわけでもないのに、勝負の日には、つい、そうしてしまう。
鏡の中に、白い肩と、すんなり伸びた脚が映る。
胸もとは、姉たちよりも少しだけ、いや、だいぶ、豊かだった。
ミヤビがひそかに、姉たちに勝っていると思っている、ほとんど唯一の数字だ。
「……これは、スコアには、関係ありませんけれど」
ミヤビは小さく咳ばらいをして、《絢爛》に脚を通した。
白と金の生地が、吸いつくように体を包む。
腰がきゅっと締まり、胸もとが持ち上がる。
その瞬間、スーツの胸の小さなスピーカーが、明るい声でしゃべりだした。
『自動採寸を開始します。装着者、綺羅星ミヤビさま。バスト、前回測定比、プラス一・五センチ』
「よ、読み上げなくてよろしいですわ!」
『ウエスト、前回測定比、プラス〇・八センチ』
「それは、もっと読み上げなくてよろしいですわーっ!!」
『ヒップ――』
「黙りなさいっ!!」
ミヤビは、真っ赤になってスーツの胸を両手でふさいだ。
ふさいだ手の下で、スピーカーはまだ、くぐもった声で数字を言い続けていた。
……誰にも聞かれていない。
部屋には鍵がかかっている。
大丈夫。綺羅星重工の技術者には、あとで厳重に抗議する。
深呼吸をひとつ。
肩と腰のリボンは、ただの飾りではない。
音声ひとつで飛び出して、相手をぐるぐる巻きにする拘束帯だ。
「動作確認。照明、点灯」
リボンの一本一本が、ランプみたいに光った。
ミヤビは鏡に向かって、背筋を伸ばした。
それから、口もとに手の甲を当てた。
「おーっほっほ。……ちがいますわね。おーっほっほっほ! ……少し、高すぎますかしら」
勝利の高笑いは、三回練習した。
三回目が、いちばん、それらしかった。
ドローンの記録によれば、廃語の男は、二度とも第七街区の古い排水路の近くで姿を消している。
排水路の中には、マイクもドローンも届かない。
つまり、男の隠れ家はそこだ。
そして、そこなら、ほかの治安官に手柄を横取りされる心配もない。
「エルザ・ノルムが逃がした獲物を、わたくしが捕まえる。そうすれば、お姉さまたちも、わたくしを見てくださいますわよね」
鏡の中の綺羅星ミヤビは、自信たっぷりに笑っていた。
その笑顔がほんの少しだけ引きつっていることに、気づいている者は、誰もいなかった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
初稿が面白くなかったので書き直してやりましたわ。
⭐︎超大変じゃん⭐︎
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