胸キュン【中盤】
『〇八:〇〇 元一等治安官より、板による交渉』
こつん。
『その毛布は 私の席です』
いつもより字が太かった。
チョークを二本は犠牲にしていそうな太さだ。
向かいの電柱のてっぺんで、双眼鏡のレンズがきらりと光る。
エルザ・ノルム。
元一等治安官。
「訂正します」と言い残して出ていった先が、向かいの電柱だった女だ。
シノブは板を見て、自分の下の毛布を見て、もう一回板を見た。
「この毛布の所有者は、エルザ・ノルム元一等治安官ですか」
「まあな」
「所有者は不在。対象との距離、一メートル。監視に最適です」
シノブは電柱に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「お借りします」
こつん。
『貸していません』
シノブは板に人差し指を当てた。
「念のため」
板の字が、黒くにじんで消えた。半分だけ。
『貸して 』
「了解しました。では遠慮なく」
「消し方が悪質すぎるだろ!」
「削除が半分しか使えませんので。どちらの半分が残るかは、選べません」
「今の、絶対選んだよな?」
シノブは答えなかった。
正座を組みなおした。
さっきより、ちょっと深く座っていた。
電柱のてっぺんが、がたんと揺れた。
それから一時間おきに板が下りてきて、そのたびに半分ずつ消された。
『座布団一枚分 ずれてください』は『座布団一枚分』になって、「座布団のご注文ですか。在庫がありません」
『では 半分だけ』は『では』になって、「では、何でしょう」
『交渉に応じなさい』は『応じなさい』になって、「何にでしょう」
「……おい、もう勘弁してやれ。あいつ、たぶん泣いてるぞ」
「泣いているかは確認できません。双眼鏡の反射しか見えませんので」
その双眼鏡が朝から一回も下ろされてないのが問題なんだよ。
昼前、板がぴたりと止まった。
諦めたか――と思った瞬間電柱のてっぺんから、ものすごい量の板がいっぺんになだれ落ちてきた。
ひもで数珠つなぎに、三十枚。
風を受けて、こいのぼりみたいにばっさばっさとはためいている。
先頭の一枚。
『消しても無駄です 予備が三十枚あります』
シノブは見上げたまま固まった。
「……引きます」
二回目。
「あれ、ゆうべのうちに全部書いたのかな……三十枚」
屋根の上で、シズカが遠い目をした。
「書いたんですわ。一枚ずつ、標準的な字で、夜通し」
天井の穴から、ミヤビがしみじみうなずく。
「恋する乙女の執念ですわ。わたくしも婚約届の刺繍で徹夜しましたもの。お気持ち、痛いほどわかりますわ」
「わかんなくていいんだよ」
ルビは三十枚を片っぱしから読み上げかけて、両手で自分の口をふさいでいた。
「よ、予備が、さんじゅ――むぐぐ」
『一三:一〇 不審な町民、一名来訪』
昼過ぎ、戸口に知らない女が立った。
頬かむり。顔の半分を覆う丸いサングラス。
カナの床下にあった、昭和の雑誌の付録だ。
白衣の胸には、ミヤビが刺繍してやった小さな花。
そして頬かむりのすきまから、銀色の髪が三房くらい思いっきりはみ出していた。
変装って言葉を、一回辞書で引いたほうがいい。
「……ごめんください」
「よう、エルザ」
「人ちがいです」
即答だった。
「通りすがりの、標準的な、町民です」
「標準的な町民は、自分で標準的って言わねえんだよ」
エルザはサングラスをくいっと押し上げた。
その拍子に頬かむりがずれて、片耳がぴょこんと出た。
真っ赤だった。
「本日は町内会より、毛布の占有面積の調査にまいりました」
「そんな調査ねえよ」
「あります。今作りました」
作るな。
エルザはふところから巻き尺を出した。
ミヤビの巻き尺だった。
いつ借りたんだ。
土間に上がりこむと、シノブの毛布の前にひざをつく。
縦。横。対角線。それから、シノブの膝から俺の寝床の端まで。
巻き尺を読む目が、すうっと細くなった。
「……九十八センチ」
「誤差です」
「誤差は認めません」
エルザは白衣のポケットからチョークを出すと、床に定規で引いたみたいにまっすぐな線を一本引いた。
俺の寝床と毛布のあいだに。
線の横に、小さく書き足す。
『ここから先 エルザ領』
「人んちに国境引くなよ」
「暫定です」
暫定の国境がいちばんもめるって、ラジ爺が言ってたぞ。
エルザはもう一枚紙を出した。
ふところからずるずる出てきて、床まで垂れた。
巻物だった。
「『同居人心得』全三十条。一晩で起草しました。熟読してください」
シノブは受け取って、上から下まで目を走らせた。
速い。念校の読解速度だ。
「第一条。灰村瓊心の寝顔を無断で観察しないこと。第二条。灰村瓊心の寝言を記録しないこと。第三条。灰村瓊心の毛布に侵入しないこと。第四条。灰村瓊心への朝の報告は、エルザ・ノルムの専任業務とする――」
シノブが顔を上げた。
「三十条すべて、主語が灰村瓊心です」
「当然です」
「あなたは今ここに住んでいないのに、灰村瓊心の寝顔と寝言と毛布と朝を、全部押さえようとしています」
「押さえてはいません。保全です」
エルザはサングラスの奥から、まっすぐシノブを見た。
「私が帰ってくるまで、それらは標準的な状態で保全されなければなりません。……誰の手にも触れられずに」
沈黙。
シノブの背中が、ほんの少し後ろに傾いた。
「……引きます」
三回目。
「引いて結構。了解してください」
「了解しました」
「――は?」
固まったのは、エルザのほうだった。
「全三十条、了解しました。順守します」
シノブは巻物をくるくると巻いてふところにしまうと、正座のまま膝ですすっとずれた。
チョークの線の、こちら側へ。
三センチ。
「一メートル、確保しました。この席はあなたが帰ってくるまでお預かりします。念のため、温めておきます」
エルザの口が、開いて、閉じて、また開いた。
三十条。巻き尺。チョーク。国境。
夜なべして全部そろえて、戦争をしに来た顔だった。
それが三秒で、無条件に受け入れられた。
戦う相手がいなくなった兵隊ほど、気の毒なもんはない。
「……了解、されて、しまいました」
エルザはサングラスを外した。
目のふちが、じわっと潤んでいた。
悔しいのか、ほっとしたのか、本人にもわかっていない顔だった。
ちかっ。
シノブのランプが光った。
「エルザ泣くな! こいつが光る!」
「泣いていません。標準です」
エルザは袖でごしごし目をこすって、戸口に向かった。
そこで一度だけ振り返る。
「灰村瓊心。毛布はちゃんと干してください」
「おう」
「私の匂いが消えない程度に」
「どっちだよ!」
「標準的に、です」
戸が閉まった。数秒後、電柱をがしがしよじ登る音が聞こえた。
「……あの方、町民のまま電柱にお戻りになりましたわ」
天井の穴から、ミヤビが言った。
床下で、缶をすする音が一回だけ、やけに長く続いた。
『一三:四〇 同居人心得、全三十条を受領。順守を了解』
『本日の「引く」、三回。ランプの点灯、四回』
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