胸キュン【後半】
『一九:三〇 感情の名称について、調査』
夜。シノブはカナに借りた『昭和流行語大辞典』を膝に広げていた。
チョークの線の、こちら側で。
「欠陥を直すには、まず欠陥の名前を知る必要があります」
「欠陥って、ランプのことか」
「本日、七回光りました」
七回。俺の知らないところで、四回も光ってたのか。
「どれも、引く、とも、恥ずかしい、とも違いました」
シノブは、ページの一か所を指でなぞった。
「これでしょうか。『胸キュン。胸がきゅんと締めつけられるような、甘く切ない気持ち』」
顔を上げる。
「締めつけられるのは、心臓ですか。それとも下着ですか」
「心臓だよ!!」
「では違います。私のは、背中がすうっと後ろに引っぱられる感じでした」
「それはただ引いてるだけだ」
「やはり」
シノブは、ほんの少しがっかりしたように見えた。
気のせいかもしれない。
……いや、ランプが光ってないから、たぶん気のせいだ。
便利だな、このランプ。
「なあ。なんでそこまでして、名前を知りたいんだ」
「名前のないものは記録できません。記録できないものは消せません」
シノブは辞典を閉じた。
「私は、名前のついたものだけを消してきました。……五年前の、エルザ・ノルムさんの執行記録も読みました。署名欄が二つありました。執行者と、命令者」
「命令者?」
「執行者は、見習いエルザ・ノルム。命令者は――」
シノブは口を閉じた。
「今は言いません。確証のないことを言えば、あなたの怒りが間違った場所に向きますので。それに私は監視役です。監視対象に上の名前を教えるのは、規程違反です」
何の色もない目だった。でも、言わないことを自分で選んだ目だった。
『二三:〇〇 対象、就寝』
ミヤビは、シノブの服の型紙を抱えたまま、かまどの前で寝落ちしていた。
寝言で「新入りさんの、肩幅が……」とうなっている。
屋根の上からは、シズカとルビの寝息。
シノブは線のこちら側でまだ正座していた。
「二晩目だぞ。横になれって」
「横になって眠ったことがありません」
前を向いたまま、シノブは言った。
「念校の宿舎では、正座のまま仮眠を取ります。横になると、無防備になりますので。……何に対して無防備なのかは、教わりませんでした」
それきり黙った。
しばらくして、呼吸がゆっくりになった。
背筋は伸びたまま、まぶただけが下りていた。
肩が小さく震えていた。
夜の土間は冷える。白衣はもうない。つなぎ一枚だ。
俺は天井を見た。
――今日一日、こいつを絶対に胸キュンさせるな。
言い出しっぺは俺だ。
……でも、寝てるし。寝てるやつは胸キュンしないだろ。
しないよな。たぶん。念のため。
俺は起き上がって、自分の毛布をそっとシノブの肩にかけた。
その上から、ミヤビが仕立ててくれた灰色の上着を、もう一枚。
足が、チョークの線をまたいでいた。
エルザ領だった。まあいいか。暫定だし。
シノブの目が、ぱちりと開いた。
起きてた。
……そりゃそうだ。念校が、毛布をかけられて起きないわけがない。
肩の毛布を見る。上着を見る。胸の金の『瓊』の刺繍を見る。
それから、毛布の端をつかんだままの俺の手を見る。
黒い瞳が、ほんの少しだけ大きくなった。
ぴかーーーっ。
ちかっ、じゃなかった。点きっぱなしだった。
『警告。着用者の感情、規定値を超過。種別、未登録。……推定、胸キュン』
「推定すんな!!」
『念校規格に基づき、全面開示します』
「するなああっ!!」
監視官服の縫い目に、赤い光がすうっと走った。
襟から、肩から、袖から。黒い布が一枚ずつ光る文字の粒になって、天井へ舞い上がっていく。
毛布の下で、つなぎの前が首からするすると開いていく。
残ったのは、黒い下着だけだった。
朝、ファスナーのすきまから見えたのと同じ、飾りのない黒。
細い肩。浮いた鎖骨。
毛布のすそから、正座のまま、白い太ももがのぞいていた。
シノブは自分の体を見下ろした。
「……問題ありません」
朝と同じ声だった。
一秒。
「……問題、あり、ません」
二秒。
白い首すじに、下から赤い色がのぼってきた。
首から耳へ。耳から鎖骨へ。鎖骨から、黒い布のふちの、その下へ。
朝はファスナー全開で俺のまぶたをこじ開けたやつが、今は毛布一枚かけられただけで、こうなっていた。
「……あの。不具合が、直りました」
「どこがだよ」
「恥ずかしい、です。……朝は、なんともなかったのに」
シノブは両腕で胸を抱えこんだ。
抱えこんだせいで黒い布の上に、やわらかいものがむにゅっと寄った。
隠すほうが目立つって、知らないんだろうな。
教わってないんだろうな。
「隠し方、間違ってますか」
「全部間違ってる」
「では、正しい隠し方をご教示ください。明日から実践します」
「実践すんな! つーか俺に聞くな!」
教えたら最後、こいつは明日から完璧な隠し方で正座してくる。
それはそれで困る。
何が困るのかは、考えないことにした。
シノブは毛布を頭からかぶった。
毛布の塊になった。
塊のすきまから、黒い瞳が片方だけのぞいて、まっすぐ俺を見上げた。
「……報告します。見られたところから順に、熱くなっています。首と、肩と、今は――」
「言わなくていい!」
「……灰村瓊心。私の体は、念校の基準では標準規格です。身長も体重も、全部平均値の範囲内で」
声が小さくなった。俺にしか聞こえないくらいに。
「規格じゃなくて。……あなたの言葉で、評価をください」
冗談で言ってる顔じゃなかった。
たぶんこいつは生まれて初めて、規格の外の答えを欲しがっていた。
「……きれいだったよ」
言ってから、顔から火が出た。
毛布の塊が、びくんと跳ねた。
「…………きれい」
「繰り返すな」
「きれい。……き、れい」
知らない単語の発音を練習するみたいに、塊の中で何度も転がしている。
やめてくれ。こっちが死ぬ。
「……あの。さっき見られたところ、まだ熱いです。冷めません。冷まし方も、わたし、知らな――」
そこで、ぴたりと止まった。
自分が何を言ったか気づいたらしい。
毛布の塊が、ぎゅうううっと小さく縮んだ。
「……い、今のは、記録しないでください」
敬語が、服より先にほどけていた。
「……胸が、きゅん、と、引きました」
「それは引いてねえよ」
「では、何ですか」
俺は、少しだけ迷った。
「……胸キュンだ。たぶん」
毛布の塊が、ぴたりと静かになった。
「……了解しました。記録します。……ぜんぶ」
窓の外が、ぱっと明るくなった。
向かいの電柱の上。
夜の見張りのためにエルザがともしていたろうそくの火が、ちょうど書きかけの板に燃え移っていた。
板はぼうっと燃え上がり、ひもからはずれて、ゆっくり落ちていく。
燃え残った端に、太い字がちらりと見えた。
『ずる――』
続きは、炎の中に消えた。
「……炎上してる」
屋根の上で目をさましたシズカが、ぼそりと言った。
「物理的に」
電柱の上で、誰かがあわてて足で火を踏み消す音がした。
それから、ものすごく小さな声で何か言った。
聞こえなかった。たぶん、報告じゃない言葉だった。
☆☆☆
深夜。毛布の塊の中で、端末の光がぽうっと点いた。
薄目を開けると、シノブが毛布にくるまったまま正座して日報を打っていた。
指の動きが、朝よりずっと遅い。
『〇五:四二 対象、起床』
『一三:一〇 元一等治安官、町民を装って来訪』
『二三:〇五 監視官服、着用者の感情により全面開示』
指が止まった。長いこと止まっていた。
それからシノブは、打った行を一行ずつ消していった。
消して、消して、全部消した。
半分しか消せないはずのやつが、自分の日報だけは一文字残さず消していた。
新しく、一行だけ打ちこむ。
『対象に異常なし。念のため、記載しません』
送信。画面が暗くなった。
床板が五センチ持ち上がった。
「……悪い子」
カナの声だった。
毛布の塊が、少しだけ揺れた。
「……はい。悪い子に、なりました。初めてです」
床板は何も言わずに閉じた。
閉じる前に、缶コーヒーが一本ころがり出てきて、シノブの膝の前で止まった。
「……甘いの。子どもでも飲めるやつ」
毛布の塊が、缶をそっと引き寄せた。
☆☆☆
夜明け前。
屋根の上で、ドローンの羽音がした。
ぽとりと何かが落ちる音。紙を破る音。
「――ぎゃーーーーっ!!」
ルビの声だった。
「『初校、朱鷺羽ルビ。三校規程違反により、本日付けで職務を停止する』
……停止!? あたし停止!? ダッサ!! ダッサすぎる!!」
屋根の上で、付箋が何十枚もいっせいにはがれて舞い上がる音がした。
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