胸キュン【前半】
『監視日報 第一日』
『〇五:四二 対象、起床』
目を開けたら、黒い瞳が三十センチ先にあった。
まばたき、ゼロ。
「おはようございます。監視対象の起床を確認しました。午前五時四十二分です」
「……うおっ」
叫ばなかった俺をほめてほしい。
寝起きにこれを食らって叫ばずにいられるのは、下層区広しといえど俺くらいのもんだ。
墨染シノブ。元・念校。
ゆうべから、うちの監視役。
そいつが、空いたエルザの毛布の上に正座していた。
ゆうべ俺が寝る前に見たのとミリ単位で同じ姿勢で。
カナに借りた白衣は、いちばん上のボタンまできっちり留めたままだ。
「おまえ、一晩じゅうそれか」
「監視任務中ですので」
「寝ろよ」
「寝ると監視できません」
「目ぇ真っ赤だぞ」
「充血は任務に支障ありません。念のため続けます」
念のため、で人間は徹夜できるらしい。
便利だな、念のため。
今度借金取りが来たら使ってみよう。念のため留守です。
床板が五センチ持ち上がった。
すきまから、カナの半目がのぞく。
視線の先は、シノブの白衣だ。
「……それ。私の」
「はい。お借りしています」
「返して」
「返却期限の記載がありませんでした」
三秒の沈黙。
床下で、缶の底を床にこする音がした。
ころん、と空き缶が転がり出てくる。
底に、小さな字。
『きょうじゅう』
「了解しました」
シノブは缶を両手で受け取ると、すっと立ち上がって白衣のボタンを外しはじめた。
「待て待て待て、今か!?」
「今も本日中です」
正論だった。
正論はときどき人を殺す。
白衣が肩から落ちた。
……下は、ちゃんと服だった。
体にぴったり沿った真っ黒なつなぎ。
胸もとに、赤い小さなランプがひとつ。
「本日付けで支給された、監視官服です」
「……びびらせんな」
「何に、びびったのですか」
「なんでもねえよ」
シノブは白衣をきっちり四つにたたんで、床板のすきまに差し出した。
小さな手が出てきて受け取る。
「……ありがと」
「あたたかかったです。念のため報告します」
「……そう」
引っこみかけた手が、止まった。
「その服。きつかったら言って。上の量産品は、ぜんぶそう。着る人のこと、なんにも考えてない」
ちかっ。
シノブの胸のランプが一瞬だけ光った。
シノブは自分の胸を見下ろして、それから首をかしげて床板を見た。
「……黄泉坂カナさん。あなたの声を、どこかで聞いたことがある気がします。上で」
床板のすきまが、しんとなった。
「気のせい」
いつもどおりの平らな声だった。
「私は床下の住人。二十五歳」
ことり、と床板が閉じた。
シノブはしばらく閉じた床板を見下ろしていた。
「……引きました。理由は不明です」
今日一回目だった。
「――新入りさん! ちょっとお待ちになって!」
天井の穴から、ミヤビが逆さまに生えてきた。
首に巻き尺をかけた、仕立て屋の顔で。
「その服、縫い目がひどすぎますわ。肩もきつそうですし、胸もあんなに押しつぶして。先輩として見過ごせませんの。採寸させてくださいまし」
「了解しました」
じじじじっ。
シノブは迷いなく首もとのファスナーを下ろしはじめた。
俺の目の前で。
「ここで脱ぐな!!」
「監視対象から目を離すことはできませんので」
「じゃあ俺が向こう向く!」
俺はくるっと壁のほうを向いた。
「対象が背を向けました。追尾します」
すたすたと足音がして、シノブが俺の前に回りこんできた。
ファスナーは、みぞおちのあたりまで下りていた。
黒い布の合わせ目から、白い肌と、飾りのない黒い下着の縁がまっすぐのぞいている。
俺は反対を向いた。シノブが回りこんだ。
反対を向いた。回りこんだ。
狭い土間で、俺とシノブはぐるぐる回った。
自分の尻尾を追いかける犬の、尻尾のほうの気持ちが初めてわかった。
こつん。
窓の外に、板が下りてきた。
『目を 閉じなさい』
「それだ!」
俺は目を閉じた。勝った。
「対象、閉眼。睡眠に移行した可能性があります。確認します」
「――いででででっ!?」
まぶたを指でこじ開けられた。
目の前十センチに、ファスナー全開の黒いつなぎがあった。
「覚醒を確認しました。継続します」
「継続すんなああっ!!」
「――採寸は! 服の上からで! 十分ですわーーっ!!」
ミヤビが天井から降ってきて、シノブのファスナーを首まで一気に引き上げた。じっ!
はあ、はあ、と荒い息が土間に響いた。
俺とミヤビのぶんだけ。
シノブはまったく息が乱れていなかった。
「……問題がありましたか」
「大ありだよ! ちょっとは恥ずかしがれ!」
「決戦の日に、恥ずかしいは覚えました」
シノブは首をかしげた。
「ですが、今は何も感じません。下着を見られるのは、恥ずかしいことではないのでしょうか。……不具合でしょうか」
知るか。俺に聞くな。
ミヤビが、シノブの胸のランプを指でつついた。
「それで、こちらは何ですの?」
「着用者の感情の揺れを検知して、上に通知する仕様です。揺れが規定値を超えると、念校規格に基づき、着用者の感情を全面開示します」
「全面開示って、データを上に送るとか、そういう話だよな」
「物理です」
「物理!?」
「縫製が解除されます。全面的に」
土間が、しんとなった。
ミヤビがゆっくり俺を見た。
屋根の穴からは、シズカとルビの顔も並んでのぞいていた。
俺は全員の顔を見回して言った。
「――いいか。今日一日、こいつを絶対に胸キュンさせるな」
「ご安心ください」
シノブが平らな声で言った。
「私は欠陥品ですが、胸キュンの機能は搭載されておりません」
ちかっ。
「今光ったよな!?」
「気のせいです」
こいつ、カナの真似を覚えやがった。
『〇六:一〇 白衣を返却。監視官服の仕様について、対象に説明』
『特記事項。対象より、本日の行動目標が提示された』
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