アッシー【後半】
「……あら?」
縁取りの糸が、裾からするするほどけはじめた。
ほどけた糸が光る文字の粒になって、空へ舞い上がっていく。
糸が抜けたそばから、継ぎはぎの端切れが一枚、また一枚と、ばらばらに離れていく。
桃色が落ちた。若草色が落ちた。生成りが落ちた。
ミヤビは、くるりと回った姿勢のまま固まっていた。
残ったのは、下着だけだった。
生成りの木綿の、飾り気のない下着。
下層区の市場で三枚いくらで売っているやつだ。
ただ、その胸もとと腰のところに、小さな花の刺繍がひとつずつ縫いつけてあった。
一秒。
夕方の風が、路地を抜けた。
ミヤビの白い肩が、ふるっと震えた。
むき出しの二の腕に、ぷつぷつと鳥肌が立っていくのが見えた。
二秒。
ミヤビの目が、ゆっくり下りていった。
自分の胸もと。おなか。太もも。
それからゆっくり上がってきて、俺の目に止まった。俺の目がどこにあるかを、確かめるみたいに。
三秒。
鎖骨のあたりから、赤い色がじわじわのぼってきた。首すじを伝って、頬に。耳に。
それでも足りなくて、胸もとの刺繍の花のまわりまで、桃色に染まっていった。
「あ、あの……はいむら、さん……い、いま……ぜんぶ……」
ぜんぶ、の先は言わなかった。言えなかったらしい。
「――――きゃあああああああですわーーーーっ!!」
路地じゅうの野良猫が、いっせいに跳び上がった。
ミヤビは両腕で胸を抱えこんだ。
抱えこんだせいで、木綿の布の上で豊かなふくらみがむにゅっと寄せ上げられて、刺繍の花が谷間に押しこまれて半分見えなくなった。
隠すほうが目立つ。
人類が何万年たっても学ばない真理だ。
「み、みないでくださいましぃ……! だめ、だめですわ、そんなまっすぐ……!」
くるりと背中を向けた。
向けたら今度は、背中がまるごと見えた。
白い背中。肩甲骨のくぼみ。
下着の細いひもが一本だけ渡った、なめらかな腰のくびれ。
「せ、せなかも、だめぇ……っ! ど、どちらを向いても見えてしまいますわぁ……!」
「じゃあ回るな! 止まれ!」
「止まったら、見えますでしょう!?」
「回っても見えてんだよ!」
「ぬ、布! 布をくださいまし!」
ミヤビはきょろきょろ見回して、それから、俺の腕の中の端切れの山に、頭から飛びこんだ。
どさどさどさっ。
荷物ごと、俺は後ろにひっくり返った。
仰向けの俺の上に、端切れと、はさみと、アイロンと、糸巻きと、干物と、鍋と、下着姿のミヤビが、まとめて降ってきた。
「重い重い重い!」
「お、重くありませんわ! 鍋が重いのですわ!」
端切れの山の中から、真っ赤な顔だけが出てきた。
俺の、真上だった。
鼻と鼻がくっつきそうな距離。
端切れの下で、やわらかくてあたたかいものが、俺の胸にぴったり押しつけられていた。
木綿一枚ごしの体温。ミヤビの心臓の音が、直接響いてくる。
とくとくとくとく。ものすごく速い。
「……は、はいむらさん」
声が、急に小さくなった。
「わ、わたくしの、からだ……」
はあ、と熱い息が唇にかかった。
「……とのがたの、おめに……かないましたかしら……」
何も言えなかった。
ミヤビは、俺の目をのぞきこんでいた。
見られる側だったはずの目が、今は、俺の顔を逃がさないように見つめていた。
「……おこたえ、くださいまし。……ちゃんと、みたのでしょう?」
こつん。
板が一枚、真上から下りてきて、俺の鼻先、つまりミヤビの後頭部の真後ろで止まった。
『視線 逸らしなさい』
「逸らせねえ! 真上にいるんだよ!」
板がするする上がっていった。
かわりに、白いものがふわりと降ってきた。
縮んだ白衣だった。カナの予備の、エルザがずっと着ていた、あの白衣だ。
ミヤビはそれを、端切れの山の中ですばやく羽織った。
袖がひじまでしかない。
前を合わせて、ボタンをいちばん上まで留める。
それから、屋根を見上げた。
屋根の端で、銀色の頭がさっと引っこんだ。
白衣を脱いだ、肌着一枚の肩が一瞬だけ見えた。
「……エルザさんの匂いがしますわ」
ミヤビは、白衣の襟に真っ赤な顔をうずめた。
「見ましたわね、灰村さん」
「……見た」
「ぜんぶ、ですの?」
「……刺繍は見た。……ほかも、ちょっと」
「ちょっと、の内訳を」
「言えるか!」
耳が、さらに赤くなった。
「……安物の木綿ですわ。三枚いくらの」
襟の中から、小さな声がした。
「でも、刺繍はわたくしのですわ。家も、名前も、お部屋も、全部取り上げられましたけれど。……自分の下着くらい、自分のものにしておきたかったんですの」
少しだけ、声が震えた。
それから、襟のすきまから、うるんだ目だけをのぞかせた。
「だから。いちばん恥ずかしいところを見られたのが、灰村さんで、よかったですわ。……ほかの殿方なら、針で目を縫っておりますもの」
「怖えよ」
「――ですので! 責任は、きっちり取っていただきますわ!」
いつもの声に戻った。戻ったふりだった。
「今日ご覧になったところ、ひとつ残らず覚えていていただきますわ。忘れたら許しませんの。そして本日を、『灰村さんにアッシーと叫ばせた日』として、記念日にいたしますわ!」
「叫ばせたのはおまえだろ」
「叫んだのは、灰村さんですわ!」
☆☆☆
帰り道は、夕焼けだった。
ミヤビはエルザの白衣を着て、俺の隣を歩いていた。俺はまた山になった荷物を抱えていた。
今度は、鍋だけミヤビが持ってくれた。
屋根の上から、ときどき、こつんと音がした。『歩行速度 標準』『荷物 落とさないこと』『白衣は 返却不要』
「返却不要って、あいつ肌着一枚だろ」
「ええ。ですから、あとでお返しいたしますわ。わたくしの仕立てで、袖を足して」
ミヤビが、くすっと笑った。
俺も、つられて笑った。
笑ってから、気づいた。
腹の底から声が出ていた。
今日の全部がばかばかしくて。
婚約届の第四条も、端切れの山も、鍋も、肌着一枚で屋根に隠れて板を下ろし続けている元一等治安官も。
笑いが止まらなかった。
ミヤビが、足を止めた。
「……やっと、笑いましたわね」
「え?」
「灰村さん。エルザさんが出ていかれてから、一度も笑っていらっしゃいませんでしたのよ。熱を出してうなされて、起きてもずっと怖い顔で」
ミヤビは、夕焼けのほうを向いていた。
「婚約届も、闇市も、勝負服も。半分は本気ですわ。でも、もう半分は……灰村さんを、笑わせたかったんですの」
朝の、何かを数えるみたいな目。あれは、俺が笑わなかった日を数えてたのか。
「……ミヤビ」
「わたくし、こう見えて、全部取り上げられた女ですのよ」
ミヤビは背筋を伸ばした。
いつもの、上層区の令嬢の立ち方だった。
「でも、灰村さんの笑い顔まで、ロゴスにも、お姉さまがたにも、あの方の罪にも、取り上げさせるのは、ごめんですわ」
泣いていなかった。
泣きそうでもなかった。
ただ、まっすぐ前を見ていた。
「わたくし、二番目でも構いませんわ。今日のところは」
ふところから、あの婚約届を取り出して、俺の手にそっと握らせる。
「一番目の席は、空けておいて差し上げますの。あの方が帰っていらっしゃるまで。……署名は、灰村さんがわたくしの前で、一日じゅう笑っていられた日に、いただきますわ」
屋根の上で、こつん、と小さな音がした。
今度の板は、何も書いていなかった。
真っ白なまま、しばらく揺れて、ゆっくり上がっていった。
☆☆☆
その夜。
床板が五センチ持ち上がった。
「……楽しかった?」
「……ああ」
「そう」
少し、間があった。
「よかった」
床板は、それきりことりと閉じた。
俺は婚約届を枕の下に入れて、目を閉じた。
そのとき、戸口のほうで足音がした。
静かで、規則正しい足音だった。
足音は家の中に入ってきて、俺の隣で止まった。
エルザの、空っぽの毛布の上で。
暗闇の中で、目を開けた。
黒い服の女が、空いた毛布の上にきちんと正座していた。
カナの白衣を、一番上のボタンまで留めて。
「墨染シノブ。本日付けで、下層区第七街区の監視任務に着任しました」
何の色もない声で、シノブは言った。
「念のため、監視します。ここで」
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