↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バグワード・バザー〜死語しか使えない底辺の俺が、完璧な管理都市をチョベリバにしてやる〜  作者: 則本潮


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

81/84

アッシー【後半】

「……あら?」


縁取りの糸が、裾からするするほどけはじめた。

ほどけた糸が光る文字の粒になって、空へ舞い上がっていく。

糸が抜けたそばから、継ぎはぎの端切れが一枚、また一枚と、ばらばらに離れていく。


桃色が落ちた。若草色が落ちた。生成りが落ちた。


ミヤビは、くるりと回った姿勢のまま固まっていた。


残ったのは、下着だけだった。


生成りの木綿の、飾り気のない下着。

下層区の市場で三枚いくらで売っているやつだ。


ただ、その胸もとと腰のところに、小さな花の刺繍がひとつずつ縫いつけてあった。


一秒。


夕方の風が、路地を抜けた。

ミヤビの白い肩が、ふるっと震えた。

むき出しの二の腕に、ぷつぷつと鳥肌が立っていくのが見えた。


二秒。


ミヤビの目が、ゆっくり下りていった。

自分の胸もと。おなか。太もも。

それからゆっくり上がってきて、俺の目に止まった。俺の目がどこにあるかを、確かめるみたいに。


三秒。


鎖骨のあたりから、赤い色がじわじわのぼってきた。首すじを伝って、頬に。耳に。

それでも足りなくて、胸もとの刺繍の花のまわりまで、桃色に染まっていった。


「あ、あの……はいむら、さん……い、いま……ぜんぶ……」


ぜんぶ、の先は言わなかった。言えなかったらしい。


「――――きゃあああああああですわーーーーっ!!」


路地じゅうの野良猫が、いっせいに跳び上がった。


ミヤビは両腕で胸を抱えこんだ。

抱えこんだせいで、木綿の布の上で豊かなふくらみがむにゅっと寄せ上げられて、刺繍の花が谷間に押しこまれて半分見えなくなった。

隠すほうが目立つ。

人類が何万年たっても学ばない真理だ。


「み、みないでくださいましぃ……! だめ、だめですわ、そんなまっすぐ……!」


くるりと背中を向けた。


向けたら今度は、背中がまるごと見えた。

白い背中。肩甲骨のくぼみ。

下着の細いひもが一本だけ渡った、なめらかな腰のくびれ。


「せ、せなかも、だめぇ……っ! ど、どちらを向いても見えてしまいますわぁ……!」


「じゃあ回るな! 止まれ!」


「止まったら、見えますでしょう!?」


「回っても見えてんだよ!」


「ぬ、布! 布をくださいまし!」


ミヤビはきょろきょろ見回して、それから、俺の腕の中の端切れの山に、頭から飛びこんだ。


どさどさどさっ。


荷物ごと、俺は後ろにひっくり返った。

仰向けの俺の上に、端切れと、はさみと、アイロンと、糸巻きと、干物と、鍋と、下着姿のミヤビが、まとめて降ってきた。


「重い重い重い!」


「お、重くありませんわ! 鍋が重いのですわ!」


端切れの山の中から、真っ赤な顔だけが出てきた。


俺の、真上だった。


鼻と鼻がくっつきそうな距離。

端切れの下で、やわらかくてあたたかいものが、俺の胸にぴったり押しつけられていた。

木綿一枚ごしの体温。ミヤビの心臓の音が、直接響いてくる。

とくとくとくとく。ものすごく速い。


「……は、はいむらさん」


声が、急に小さくなった。


「わ、わたくしの、からだ……」


はあ、と熱い息が唇にかかった。


「……とのがたの、おめに……かないましたかしら……」


何も言えなかった。


ミヤビは、俺の目をのぞきこんでいた。

見られる側だったはずの目が、今は、俺の顔を逃がさないように見つめていた。


「……おこたえ、くださいまし。……ちゃんと、みたのでしょう?」


こつん。


板が一枚、真上から下りてきて、俺の鼻先、つまりミヤビの後頭部の真後ろで止まった。


『視線 逸らしなさい』


「逸らせねえ! 真上にいるんだよ!」


板がするする上がっていった。


かわりに、白いものがふわりと降ってきた。


縮んだ白衣だった。カナの予備の、エルザがずっと着ていた、あの白衣だ。


ミヤビはそれを、端切れの山の中ですばやく羽織った。

袖がひじまでしかない。

前を合わせて、ボタンをいちばん上まで留める。


それから、屋根を見上げた。


屋根の端で、銀色の頭がさっと引っこんだ。

白衣を脱いだ、肌着一枚の肩が一瞬だけ見えた。


「……エルザさんの匂いがしますわ」


ミヤビは、白衣の襟に真っ赤な顔をうずめた。


「見ましたわね、灰村さん」


「……見た」


「ぜんぶ、ですの?」


「……刺繍は見た。……ほかも、ちょっと」


「ちょっと、の内訳を」


「言えるか!」


耳が、さらに赤くなった。


「……安物の木綿ですわ。三枚いくらの」


襟の中から、小さな声がした。


「でも、刺繍はわたくしのですわ。家も、名前も、お部屋も、全部取り上げられましたけれど。……自分の下着くらい、自分のものにしておきたかったんですの」


少しだけ、声が震えた。


それから、襟のすきまから、うるんだ目だけをのぞかせた。


「だから。いちばん恥ずかしいところを見られたのが、灰村さんで、よかったですわ。……ほかの殿方なら、針で目を縫っておりますもの」


「怖えよ」


「――ですので! 責任は、きっちり取っていただきますわ!」


いつもの声に戻った。戻ったふりだった。


「今日ご覧になったところ、ひとつ残らず覚えていていただきますわ。忘れたら許しませんの。そして本日を、『灰村さんにアッシーと叫ばせた日』として、記念日にいたしますわ!」


「叫ばせたのはおまえだろ」


「叫んだのは、灰村さんですわ!」


☆☆☆


帰り道は、夕焼けだった。


ミヤビはエルザの白衣を着て、俺の隣を歩いていた。俺はまた山になった荷物を抱えていた。

今度は、鍋だけミヤビが持ってくれた。


屋根の上から、ときどき、こつんと音がした。『歩行速度 標準』『荷物 落とさないこと』『白衣は 返却不要』


「返却不要って、あいつ肌着一枚だろ」


「ええ。ですから、あとでお返しいたしますわ。わたくしの仕立てで、袖を足して」


ミヤビが、くすっと笑った。


俺も、つられて笑った。


笑ってから、気づいた。

腹の底から声が出ていた。

今日の全部がばかばかしくて。

婚約届の第四条も、端切れの山も、鍋も、肌着一枚で屋根に隠れて板を下ろし続けている元一等治安官も。


笑いが止まらなかった。


ミヤビが、足を止めた。


「……やっと、笑いましたわね」


「え?」


「灰村さん。エルザさんが出ていかれてから、一度も笑っていらっしゃいませんでしたのよ。熱を出してうなされて、起きてもずっと怖い顔で」


ミヤビは、夕焼けのほうを向いていた。


「婚約届も、闇市も、勝負服も。半分は本気ですわ。でも、もう半分は……灰村さんを、笑わせたかったんですの」


朝の、何かを数えるみたいな目。あれは、俺が笑わなかった日を数えてたのか。


「……ミヤビ」


「わたくし、こう見えて、全部取り上げられた女ですのよ」


ミヤビは背筋を伸ばした。

いつもの、上層区の令嬢の立ち方だった。


「でも、灰村さんの笑い顔まで、ロゴスにも、お姉さまがたにも、あの方の罪にも、取り上げさせるのは、ごめんですわ」


泣いていなかった。

泣きそうでもなかった。

ただ、まっすぐ前を見ていた。


「わたくし、二番目でも構いませんわ。今日のところは」


ふところから、あの婚約届を取り出して、俺の手にそっと握らせる。


「一番目の席は、空けておいて差し上げますの。あの方が帰っていらっしゃるまで。……署名は、灰村さんがわたくしの前で、一日じゅう笑っていられた日に、いただきますわ」


屋根の上で、こつん、と小さな音がした。


今度の板は、何も書いていなかった。

真っ白なまま、しばらく揺れて、ゆっくり上がっていった。


☆☆☆


その夜。


床板が五センチ持ち上がった。


「……楽しかった?」


「……ああ」


「そう」


少し、間があった。


「よかった」


床板は、それきりことりと閉じた。


俺は婚約届を枕の下に入れて、目を閉じた。


そのとき、戸口のほうで足音がした。


静かで、規則正しい足音だった。


足音は家の中に入ってきて、俺の隣で止まった。

エルザの、空っぽの毛布の上で。


暗闇の中で、目を開けた。


黒い服の女が、空いた毛布の上にきちんと正座していた。

カナの白衣を、一番上のボタンまで留めて。


「墨染シノブ。本日付けで、下層区第七街区の監視任務に着任しました」


何の色もない声で、シノブは言った。


「念のため、監視します。ここで」



最後までお読みいただきありがとうございました。

よろしければ、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。