アッシー【前半】
「では、こちらにご署名を」
朝飯の干し芋をかじっていたら、目の前に紙が一枚置かれた。
刺繍の縁取りがついた、やけに立派な紙だった。
四隅に金糸の花。
上のほうに、ひときわでかい金の字で二文字。
『婚約』
「……熱、また上がってきた気がする」
「平熱ですわ。今朝カナさんが手で測りましたもの」
ミヤビは俺の向かいに正座して、にっこり笑った。
膝の上で針山を握っている。
目の下に、うっすらクマ。
ゆうべ寝ないで刺繍したんだろう。
熱が下がったばかりの男に、徹夜明けの令嬢が婚約を迫る。
下層区の朝は今日も平和だ。
紙には、細い刺繍の字で条文が並んでいた。
『第一条 甲(灰村瓊心)は、毎朝、乙(綺羅星ミヤビ)のゆでた卵を一個召し上がること』
『第二条 記念日は乙が決めること。甲に拒否権はないこと』
『第三条 甲は、乙の仕立てた服以外を着ないこと。下着を含む』
『第四条 甲は、毎日一回、乙を「かわいい」と言うこと』
「契約書じゃねえか」
「婚約届ですわ。上層区では、婚約は契約ですもの」
ミヤビは胸を張った。
「空いた席は、わたくしがいただきますわ。……と申し上げたら、ふしだらかしら」
こつん。
窓の外に、ひもにぶら下がった板が下りてきた。
『その書類は 無効です』
少し間があって、二枚目。
『様式違反 第四条は強要に該当します』
「エルザさん、朝からお早いですのね」
ミヤビは窓に向かって、優雅に頭を下げた。
「でも、無効かどうかは甲と乙が決めることですわ。外野はお黙りになって」
こつん。
『外野ではありません』
こつん。
『……外野です』
自分で認めるのかよ。
板は、少ししょんぼり揺れて、上がっていった。
屋根の上でどたどたと足音がして、ルビとシズカが窓から逆さまに顔を出した。
「婚約って聞こえた! ねえ何それ、読ませて!」
ルビの目が、紙の上をものすごい速さで走った。
走ったそばから口が勝手に読み上げていく。
「第三条、甲は乙の仕立てた服以外を着ないこと、下着を含む――下着を含む!?」
「ルビさん、声に出さないでくださいまし!」
ぺたん、とルビの付箋が、婚約届のど真ん中に貼りついた。
『だめ《ぜったい》』
「勝手に貼るな!」
「勝手に貼れたの!」
シズカは端末で紙を撮って、まじめな顔で言った。
「法的拘束力はゼロ。下層区には婚姻の登録制度がないから。……でも刺繍の密度は、上層区の礼服より高い。これを一晩で?」
「……一晩で、ですわ」
ミヤビは、なぜか少しだけ目をそらした。
それから、俺の顔をじっと見た。
何かを数えるみたいな目だった。
すぐに、いつものはなやかな笑顔に戻った。
☆☆☆
「とにかく、署名はしねえ」
「存じておりますわ」
ミヤビは、あっさり紙をたたんだ。
拍子抜けするほど、あっさりと。
「でしたら本日は、闇市にお付き合いいただきますわ。婚約の前の、下見ですの」
「何の下見だよ」
「わたくしの、お買い物の下見ですわ」
それはただの買い物だ。
床板が五センチ持ち上がった。
カナの手が出てきて、俺の手のひらに何かを落とした。
小さな、くすんだ金色の結晶が五枚。
下層区の通貨、字だ。
「……デート代」
「いいのか」
「貸し」
それだけ言って床板を閉めかけて、すきまから、ミヤビのほうを見た。
「……あんまり、遅くならないで」
「承知いたしましたわ」
ミヤビが床板に向かって、ていねいに頭を下げる。
床板がことりと閉じた。
閉じたあとで、床下からもう一言だけ聞こえた。
「……楽しんで、きて」
ミヤビは閉じた床板をしばらく見ていた。
それから俺のほうを向いて、いつもより少し小さな声で言った。
「カナさんは、ずるいですわね。ああいうことを、さらっとおっしゃるのですもの」
☆☆☆
闇市は、昼前がいちばん混む。
路地という路地にござが敷かれ、屋台が並ぶ。
ゴミ山から拾ってきた鍋、修理した時計、どこから流れてきたのかわからない上層区の古着。
焼いた干物の煙と、安い揚げ油のにおい。
ミヤビは、その真ん中を背筋を伸ばして歩いた。
泥のしみが残った生成りのワンピース。
裾は、俺の上着の裏地に使ったぶんだけ、膝の上で切りそろえられている。
上層区のドレスとは似ても似つかない格好だ。
それでも歩き方だけは、上層区の令嬢のままだった。
屋台の親父たちが、ちらちらこっちを見た。
ひそひそ声が聞こえる。
「あれ、綺羅星の三女だろ」
「追い出されたって噂の」
「下層区で何やってんだか」
ミヤビの背中が、一瞬だけこわばった。
でも、振り返らなかった。歩く速さも変わらなかった。
「……聞こえてるぞ」
「存じておりますわ」
前を向いたまま、ミヤビは言った。
「元・綺羅星の三女ですもの。噂になって当然ですわ。噂に負けてうつむいて歩くほうが、よっぽど綺羅星の名に恥じますもの」
声は、ちゃんと笑っていた。
「腹減ったな。そこの揚げ団子、買うか。カナの字で」
「いいえ」
ミヤビは、きっぱり首を振った。
「カナさんの字は、灰村さんの分ですわ。わたくしは使いません。貸しは作りたくありませんもの。とくに、あの方には」
「意地張るなよ」
「意地ではありませんわ。誇りですの」
ミヤビはワンピースの裾を、ぴんと払った。
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