バタンキュー【後半】
夜になって、家の中が静かになった。
ミヤビは卵の鍋を抱えたまま、かまどの前で寝落ちしていた。
寝言で「四段目は、いちごですわ……」と言っている。ルビとシズカは、直したばかりの床の上で肩を寄せあって眠っていた。
ルビの付箋が一枚、シズカの頬に貼りついている。
『まくら』
起きているのは、カナだけだった。
俺の枕もとに、膝を抱えて座っている。灯りは消してあるのに、カナの目だけがずっと開いているのがわかった。
「……寝ねえのか」
「寝ない。見張り」
「何の」
「熱の。……それと、電柱の」
カナは窓のほうを、ちらりと見た。
「あの人、ずっとあそこにいる。双眼鏡で、こっちを見てる。たぶん夜通し」
「……バカだな」
「バカは二人いる。あそこと、ここ」
カナは膝にあごをのせた。どっちのことを言ったのか、わからなかった。
「……三人目は」
「三人目は、ここ」
カナは、俺のおでこを指でつついた。熱でぼんやりしていても、悪口を言われたことだけはわかった。
熱が、また上がってきた。
天井が、ゆっくり回りはじめる。回る天井の向こうに、昔の空が見えた。
灰色の空だった。
十二歳だった。ゴミ山のてっぺんで、空き缶を拾っていた。
空から、きらきらしたものが降ってきた。
雨みたいだった。
でも、雨じゃなかった。
ひとつぶが、俺のこめかみに、まっすぐ落ちた。
熱かった。
頭の中で、何かがぱきんと割れた。
知らない言葉が、知らない声で、いっせいに流れこんできた。
笑い声。泣き声。怒鳴り声。
誰かが、誰かを好きだと言う声。
倒れて、空を見上げていた。
そのとき、誰かがそばにいた気がした。
顔は見えなかった。
小さな手が、俺のおでこに当てられていた。
冷たい手だった。
誰かが、何度も何度も、同じことを言っていた。
声が震えていた。
「……ハナ……」
口から、勝手に名前がこぼれた。
違う。あのとき、ハナはいなかった。じゃあ、誰だ。
手を伸ばした。暗闇の中で、何もないところをつかもうとした。
小さな手が、俺の手をつかまえた。
冷たかった。あの日の手と、同じくらい。
「……ここに、いる」
カナの声だった。
「ここに、いる。……七年前から」
回っていた天井が、止まった。
「……七年?」
カナの指が、俺の手の中でびくりと震えた。
少し、間があった。
「……七時間」
カナは言い直した。いつもの平坦な声で。
「七時間前から。ずっと、ここ。熱で、聞きまちがえた」
「……そっか」
そうなのかもしれなかった。
熱で、何もかもがぐにゃぐにゃだった。
でも、つかまれた手はぐにゃぐにゃじゃなかった。小さくて、冷たくて、俺の手を離さなかった。
「……カナ」
「なに」
「昔、誰かが、俺のおでこ冷やしてくれた気がする。ゴミ山で。すげえちっちゃい手で」
カナは答えなかった。
答えるかわりに、もう片方の手のひらを、俺のおでこにそっと当てた。
冷たかった。
シズカの言ったとおりだった。
心臓の音が、ひとつ、ふたつ、ゆっくりになっていくのが、自分でもわかった。
「……寝て」
カナが言った。
「起きたら、熱は下がってる。……たぶん、じゃない。下がってる」
眠りに落ちる直前、カナが何か、小さな声で言った気がした。
聞き取れなかった。
ただ、俺の手を握る指が、ほんの少しだけ震えていた。
☆☆☆
目が覚めると、窓が白くなっていた。
頭が軽い。
天井は、ちゃんと天井のまま止まっていた。
枕もとに、カナはいなかった。
かわりに、胸の上に、灰色の上着がきちんとたたんで置いてあった。
金の『瓊』が朝日に光っている。
上着の上に、空き缶が一本。
中身は、まだほんのり温かかった。
缶の底に、小さな字。
『かえす。きょうは』
きょうは、って何だ。明日また借りる気か。
直したばかりの床板が、五センチだけ持ち上がった。
「……熱、下がった?」
「下がった」
「そう」
床板は、それきりことりと閉じた。
こつん。
窓の外に、板がぶら下がっていた。
『平熱 確認』
しばらく、そのまま揺れていた。
それからするする上がって、もう一度下りてきた。
今度の字は、少しにじんでいた。
夜露のせいだったのかもしれない。
『……よかった』
窓から首を出した。
電柱の上には、もう誰もいなかった。
変圧器の箱の上に、小さな紙の包みがひとつだけ残されていた。
治安局の、白い包装紙。
ひもを引いて、たぐり寄せた。
中には白い錠剤が二粒と、几帳面な字の紙片が入っていた。
『標準的な、お見舞いです』
署名はなかった。いらなかった。
「――灰村さん! おはようございますわ!」
かまどの前で、ミヤビが跳ね起きた。
寝ぐせの金髪を振り乱して、鍋の中からゆで卵をひとつ取り出す。
「本日の卵ですわ! それと――」
寝間着のふところから、折りたたんだ紙をちらりとのぞかせた。
刺繍の縁取りがついた、やけに立派な紙だった。
「熱が下がりましたら、責任のお話をさせていただきますわね。……昨日の、事故の分の」
紙の端に、金糸で『婚約』の二文字が見えた気がした。
「……もう一回、熱出していいか」
「いけませんわ!」
「……だめ」
床板の下からも聞こえた。
こつん。窓の外で、板が鳴った。
『却下』
三方向から却下された。病人に人権はないらしい。もう治ったけど。
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