バタンキュー【中盤】
昼過ぎ、熱がもう一段上がった。
汗が止まらない。
肌着が、背中にべったり張りついている。
「お体をお拭きいたしますわ」
ミヤビがたらいにぬるま湯を張って、手ぬぐいを浸した。
「わたくしが、背中から」
「私が、首から」
床の穴から、カナの手が伸びて、ミヤビの手ぬぐいの端をつまんだ。
「首からが正しい。熱は首から逃がす」
「背中のほうが汗をかいておりますわ!」
「首」
「背中ですわ!」
「首」
手ぬぐいが、ぴんと張った。
どちらも放さない。俺の体は一つしかないので、できれば同時に拭いてほしい。
いや、それはそれで困る。
二人が同時に引っぱった瞬間、ミヤビの足が、たらいのふちに引っかかった。
「きゃっ――」
ざぶん。
たらいの湯が、まるごとミヤビの胸もとにかかった。
ミヤビは、屋根裏の古いカーテンで仕立て直した、薄い寝間着のままだった。
濡れた布が、肌にぴったり張りついていく。
肩の線。鎖骨のくぼみ。
その下の豊かな丸みのかたちが、布ごしに、そのまま浮かび上がった。
「…………」
ミヤビは自分の胸もとを見下ろした。
それから、熱でぼんやりしている俺の顔を見た。
俺の目が、どこで止まっているかを見た。
「……は、はいむら、さん。……いま、どこ、みて……」
「……み、見てねえ」
「うそ、ですわ……めが、とまって……っ」
赤い色が、首すじから濡れた胸もとへ、じわっと広がった。
「――きゃあああああですわーーっ!! ぬ、布! 布をくださいまし!」
「布は今、全部、俺の汗を拭くのに使ってる……」
「でしたら、灰村さんの毛布を!」
ミヤビは俺の毛布を引っぺがして、自分の体に巻きつけた。
汗だくの俺が、肌着一枚で床の上に取り残された。
「……さむい」
「病人の毛布、とるな」
カナが、着ていた俺の上着を脱いで、ばさりと俺にかけた。
上着の下は、またあのぶかぶかのTシャツ一枚だった。
裾は太ももの半ばまでしかない。細い脚が、白くすらりと伸びていた。
「……カナさんも、たいがいふしだらですわよ」
毛布のすきまから、ミヤビが言った。
「私は大人だから、平気」
平坦な声だった。
言いながら、俺の目が自分の膝のあたりで一回止まったのに、気づいたらしい。
Tシャツの裾を、両手でぎゅっと引っぱった。
引っぱったぶんだけ襟ぐりがずれて、白い肩が片方、まるごと出た。
「……三秒」
「数えてねえよ」
「私が数えた」
大人だから平気、のわりに、耳が真っ赤だった。
こつん。
『密着 規程違反』
板の字が、さっきより少し乱れていた。
「誰も密着してねえよ……」
こつん。
『毛布を 返しなさい』
「エ、エルザさんに見られておりますのね!? 双眼鏡で!? この格好を!?」
毛布にくるまったミヤビが、窓に向かって真っ赤な顔で叫んだ。
「こ、これは看病の事故ですわ! ふしだらではございませんわーーっ!!」
こつん。
『事故は 記録しました』
少し間があって、もう一枚。
『黄泉坂カナ あなたもです』
カナが、Tシャツの裾を握ったまま固まった。
ミヤビは毛布の中に、頭まで沈んだ。
毛布の塊が、ふるふる震えていた。
「……灰村さん。責任は、熱が下がってから、きっちり取っていただきますわ」
「俺、寝てただけだろ……」
病人に責任を取らせる国があるなら、そこはたぶん地獄だ。
☆☆☆
夕方。
屋根の上から、ルビが付箋を山ほど抱えて降りてきた。
「シズカが言ってた。おでこを冷やすのがいちばんいいって。だから、これ」
付箋に何か書いて、俺のおでこにぺたっと貼る。
『ひえひえ』
貼られたところが、ほんのり冷たくなった。
「……効くのか、これ」
「読んだら効く。たぶん。ひえひえ、ひえひえ」
ルビは、おでこと、ほっぺたと、首すじに、次々と付箋を貼っていった。
『ひえひえ』『つめたい』『ゆきだるま』『れいぞうこ』
最後の一枚だけ、少し迷ってから、胸の上に貼った。
『はやく なおれ』
それは、冷たくなかった。
少しだけ、あったかかった。
「……ダッサ」
ルビは自分で貼った付箋を見て、ほっぺたをふくらませると、そっぽを向いて屋根へ駆け上がっていった。
入れ替わりに、シズカが降りてきた。
端末を俺の胸に向ける。
「付箋の効果を検証する。……体温、変化なし。心拍、変化なし」
「やっぱ効いてねえじゃねえか」
「でも、ひとつだけ有意な変化がある」
シズカは画面を指でなぞった。
「今日一日の記録を重ねてみた。君の心拍がはっきり下がる時間帯が、何回かある。全部、黄泉坂さんの手が、君のおでこに触れていたときだ。平均で三つ下がる」
床の穴のふちで、カナの缶が、ぴたりと止まった。
「解熱の最適解は、たぶん黄泉坂さんの手のひら。成分は解析できない」
「……その端末、ちょうだい」
カナの手がすっと伸びて、シズカの端末を取りあげた。
画面も見ないで、電源を落とす。
「解析、禁止」
「ど、どうして」
「どうしても」
カナは端末をシズカの胸に押しつけて返した。
返しながら、俺のほうは一度も見なかった。
こつん。
窓の外の板には、何も書いていなかった。
真っ白のまま、しばらく揺れて、それからゆっくり上がっていった。
戸口の外に、板きれを抱えたタクトが立っていた。
家の中には入ってこない。
窓ごしに、板を掲げただけだった。
『にいちゃん がんばれ いきてろ』
「……いきてるよ」
タクトはそれを確かめると、うなずいて、走って帰っていった。
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