バタンキュー【前半】
朝、起き上がろうとしたら、天井が回った。
回った天井が、そのまま床になった。
ばたん。
顔の横で、何かがきゅうと鳴った。
たぶん俺ののどだった。
「……灰村さん?」
屋根裏の穴から、ミヤビが逆さまに顔を出した。
手にゆで卵をひとつ持っている。
ゆうべ言っていた、毎日一個のやつだ。
「おはようございますわ。本日の卵を――」
ミヤビの目が、床に伸びている俺を見た。
卵が、手から落ちた。
ころころ転がって、俺の鼻先で止まった。
「――きゃあああああですわーーっ!! 灰村さんが! 床と一体化していらっしゃいますわーーっ!!」
「……うるせえ……頭に響く……」
床の穴から、カナが這い出してきた。
俺の上着を着たまま。
眠そうな目が、俺を見た瞬間にすっと細くなる。
小さな手のひらが、おでこに当てられた。
ひんやりしていた。
「……熱い。三十九度ある」
「わかるのか」
「手でわかる。……昔、よく測った」
「昔っていつだよ」
「なんでもない。寝て」
カナは俺の頭を、ぐいっと毛布に押し戻した。
屋根の上から、シズカが逆さまに顔をのぞかせた。
端末を俺に向ける。
「解析。灰村瓊心、体温三十九度一分。原因は、S級『ドロン』の代償の遅れが四割、睡眠不足が二割、残りの四割は――」
そこで、言葉を切った。
画面を見なかったことにするみたいに、端末をそっと伏せる。
「……残りは心因性。名前は、つけない」
名前をつけないのが、いちばん名前をつけてるんだよ。
☆☆☆
看病が始まった。
始まった瞬間に、戦争になった。
「病人には、上層区の作法でございますわ!」
ミヤビがかまどの前に陣取った。
腕まくりをして、朝市で買いこんだ卵と粉と砂糖の山を、ずらりと並べる。
四段ケーキ用の材料だ。
「まず前菜に卵のムース。続いて卵のポタージュ。お口直しに卵のシャーベット。主菜は、卵のおかゆでございますわ!」
「卵しかねえじゃねえか」
「卵しかございませんもの! 延期したケーキの材料ですわ!」
床の穴のふちで、カナが缶コーヒーを一本、ぷしゅっと開けた。
小鍋に残りごはんを放りこむ。
水を入れる。缶コーヒーを、どぼどぼと注いだ。
「……カナさん。それは何ですの」
「缶コーヒー粥。目が覚める。熱も、たぶん下がる」
「たぶん、ですの!?」
「七年、これで生きてきた」
「だから七年って何だよ……」
十分後、枕もとに湯気の立つ椀が二つ並んだ。
右。黄金色の、つやつやの卵粥。
刻んだ青菜と、なぜか金箔みたいに薄く焼いた卵の飾りつき。
左。茶色い。
何とも言えないにおいがする。
「さあ灰村さん。どちらを先に召し上がりますの」
「……どっち」
二人ぶんの視線が、熱のある頭に刺さった。
病人に二択を迫るな。
病人は一択でも重いんだ。
「……卵粥」
ミヤビがぱあっと顔を輝かせた。
カナは無言で、自分の椀を手もとに引き寄せた。
一口食べた。うまかった。
悔しいくらいうまかった。
それから、左の椀にも匙を伸ばした。
「……灰村さん?」
一口。苦い。甘い。
焦げた豆の匂いが、鼻に抜けた。
なのに、腹の底がふっとあったかくなった。
どこかで、ずっと昔に食べたことがあるような味だった。
「……こっちも、悪くない」
カナは何も言わなかった。
缶の飲み口に口をつけたまま、耳の先だけが少し赤くなった。
「――ずるいですわ! 二股ですわ! おかゆの二股ですわーーっ!!」
「病人に二股とか言うな……」
昼前、窓の外で、こつんと音がした。
板きれが一枚、ひもでぶら下がっていた。
上から、するする下りてきたらしい。
『体温 三十九度二分 推定』
ひもをたどって窓から首を出すと、向かいの電柱のてっぺん、変圧器の箱の陰に、銀色の髪がちらりと見えた。
双眼鏡のレンズが、日差しを跳ね返して、一回だけちかっと光る。
すぐに引っこんだ。
出ていった先が、向かいの電柱。
出ていくって言葉の意味を、あいつは一回辞書で引いたほうがいい。
板が上がっていく。しばらくして、また下りてきた。
『おかゆは 塩ひとつまみ 標準』
「……塩、入れてませんでしたわ」
ミヤビが、悔しそうに自分の卵粥を見た。
また上がる。下りてくる。
『缶コーヒー粥は 推奨できません』
「……余計なお世話」
カナが缶をすすりながら、板に向かって、べっと小さく舌を出した。
屋根の上では、シズカとルビが、抜けた床板の修理を始めていた。
ゴミ山から拾ってきた板を、穴の上に一枚ずつ渡していく。
「この板、厚みが二ミリずれてる。補正して、釘は三本。角度は――」
「もくめ、きれい。ふし、ひとつ。ささくれ、ふたつ。あ、ここ虫が――」
「ルビ、木目を読むのはあとにして」
「だって読めちゃうんだもん!」
金づちの音と、ルビの読み上げが交互に響いた。
頭にものすごく響いた。
「……おまえら、もうちょっと静かに直せねえのか」
「静かにすると、釘の角度がずれる」
「静かにすると、木目が読めなくなる」
二人が同時に言った。
屋根の上の住人は、そろいもそろって理屈が多い。
「でしたら、わたくしが子守唄を」
「やめろ。ミヤビの歌は、たぶんもっと響く」
「失礼ですわね! 上層区の声楽の先生には、『よく通る声』と褒められましたのよ!」
「それは褒められてねえ……」
こつん。
『病人を 笑わせないこと 標準』
「笑ってねえよ……」
笑ってなかった。
いつもなら、ここで笑ってる。
笑い方を忘れたわけじゃない。
笑う筋肉の場所を、きのうの朝どこかに置き忘れてきた。
そんな感じだった。
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