ほの字【後半】
エルザの荷物は少なかった。
この家に来たとき、エルザは何も持っていなかった。誤字の印を押された制服、それだけだ。
今、土間に並んでいるのは、この家に来てから増えたものばかりだった。
カナに借りた予備の白衣。
ガキどもが書いた『エルザねえちゃん チョベリグ』の板。
ミヤビが繕った靴下。
シズカに借りっぱなしの規程集の写し。
ルビにおでこに貼られた付箋、『まじめ《すぎ》』
一つずつたたんで、重ねて、風呂敷に包む。
手つきは、いつもどおりきっちりしていた。
最後に、お湯を沸かすのに使っていた空き缶を手に取った。
しばらく見ていた。
それから、かまどの横にそっと戻した。
「これは置いていきます。この家の、標準的な道具ですので」
俺は何も言えなかった。
エルザは風呂敷を胸に抱いて、戸口に立った。
朝の光が、銀色の髪の縁を白く光らせていた。
「灰村瓊心。最後に、ひとつだけ」
振り返らなかった。戸口の外を、まっすぐ見ていた。
「カナさんの床下にあった、昭和の雑誌に載っていました。こういう気持ちのことを、昔の人は『ほの字』と言ったそうです」
床下で、かたんと音がした。
「好き、という意味です。それだけでは足りなくて、言うのが恥ずかしくて、でも黙っていられないときの言葉だと、書いてありました」
エルザは息を吸った。
「私は、あなたに、ほの字です」
口から、小さな字がこぼれた。
桃色の、まるい、ふにゃふにゃの字。
『ほの字』
誤字のエルザの言葉は、ロゴスに受理されない。
粛清の光も落ちてこない。
だからその字は、朝の空気の中に、ただふわりと浮かんでいた。
「……ハナさんの言葉を消した私が、言ってはいけない言葉です。わかっています」
声が、初めてはっきり震えた。
「わかっていて、言います。消されても、言います。これだけは、訂正しません」
振り返った。
真っ赤な顔だった。
泣いてはいなかった。
泣くのを、全力でこらえている顔だった。
「好きです。灰村瓊心。……あなたを初めて褒めた日から、ずっとです。これは、報告では、ありません」
桃色の字が、ゆっくり漂ってきて、俺の手のひらにぽとりと落ちた。
あたたかかった。火傷しそうなくらい。
エルザは、一歩、外に出た。
「おはようございます、とも、おやすみなさい、とも、言えなくなりますので。……標準的に、行ってまいります」
戸が、静かに閉まった。
足音が、路地の向こうへ遠ざかっていく。
俺は、追わなかった。
追えなかった。
手のひらの上で、桃色の字が、まだかすかに光っていた。
☆☆☆
昼過ぎ、ミヤビたちが帰ってきた。
両腕に、卵と粉と砂糖の袋を山ほど抱えている。
本当に四段分買ってきやがった。
戸口で、ミヤビは立ち止まった。
正座の跡だけが残った土間を見た。
かまどの横の、六つの空き缶を見た。
何も聞かなかった。
抱えていた袋を、そっと床に下ろした。
「……ケーキは、延期いたしますわ」
記念日を作るときの声じゃなかった。
「記念日にするのは、エルザさんが帰ってこられた日に。それまで、卵は腐らせませんわ。毎日一個ずつ、灰村さんにゆでて差し上げます」
「四段分だぞ。何個あんだよ」
「三十個ですわ」
「一か月かかるじゃねえか」
「ですから、一か月以内に帰っていただきますの」
ミヤビは、にっこり笑った。目のふちが赤かった。
ルビは俺の隣にしゃがんで、付箋を一枚出しかけて、しまった。
何を書いても、今は読めない気がしたんだろう。
シズカは屋根に上がったきり、降りてこなかった。
端末のゆうべの録音を、消そうとして消せずにいるのが、窓から見えた。
路地の向こうで、タクトが板きれを抱えて立っていた。
『エルザねえちゃん どこ』
誰も、答えられなかった。
☆☆☆
その夜。
明かりを消しても、眠れなかった。
隣の毛布が空っぽだった。
こぶし一つぶん離れて、きっちり正座して、「おやすみなさい、灰村瓊心」と言う声が、なかった。
床板が鳴った。
いつもの五センチじゃなかった。
抜けた穴のふちに小さな手がかかって、体がずるりと這い上がってきた。
俺の上着を着たままのカナだった。
カナは、床の上に立った。
床下の住人が床の上に立つのを、初めて見た気がした。
「……聞いてたか」
「全部」
それだけ言って、カナは俺の隣に座った。
エルザの毛布の上じゃなかった。
反対側の隣だった。
何も言わなかった。慰めも、説教もしなかった。
缶も開けなかった。
ただ、俺の肩に、自分の肩を少しだけ寄せた。
上着ごしに、小さな体温が伝わってきた。
「……怒っていいのか、わかんねえ」
しばらくして、俺は言った。
「許していいのかも、わかんねえ」
「どっちも、今日じゃなくていい」
平坦な声だった。
「罪は、持ってる人のほうが重いから。……あの人はたぶん、あなたが思ってるより、ずっと前から持ってた」
「なんでわかる」
カナは答えなかった。
かわりに、俺の手のひらをそっとのぞきこんだ。
桃色の『ほの字』が、まだかすかに光っていた。
「……消えてない」
長いこと見ていた。
何を思っていたのかは、わからなかった。
「きょうは、いる。……あなたの隣には、だれか、いる」
それきり、カナは俺の肩にもたれて目を閉じた。
窓の外の電柱の上で、何かが光った。
月の光をひとすじだけ跳ね返した、丸いレンズ。
その奥で、銀色の髪が夜風に揺れていた。
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