ほの字【中盤】
「五年前。私は十七歳でした」
エルザは膝の上で、指を組みなおした。
「治安局の、見習い校閲官でした。白い制服に、顔の半分を覆う銀色の面。……面をつけると、声がくぐもります。誰の声か、わからなくなるように」
背中が冷たくなった。
銀色の面。くぐもった声。
知っている。
五年間、毎晩のように夢に見てきた。
十歳のハナが、干物屋の前で得意げに振り返った顔。にいちゃんに教わった言葉を言う最高のタイミングを見つけた、って顔。
それが次の瞬間、凍りついた顔。
「初めての執行でした。下層区の市場で、十歳の女の子が廃語を叫んだ。子どもが知っているはずのない、古い言葉を。……上層区から、私がひとりで派遣されました」
平坦な声だった。
平坦にしようとして、ところどころで細く裏返った。
「私はその子の前にひざをついて、マニュアルどおりに聞きました。『その言葉を、誰から聞きましたか』」
干物屋の前だった。
市場の大人たちが、俺のほうを見た。
俺の足は、動かなかった。
「女の子は一度だけ、人垣のほうを見ました。それから首を横に振りました。何も、言いませんでした」
エルザは俺を見ていなかった。
俺の後ろの柱を見ていた。
「あの子が誰かをかばっているのは、見習いの私にもわかりました。わかったうえで、手袋の手で、あの子の額に触れました。熱かったです。泣いていたからだと思います」
唇が震えた。
「そして、言いました」
一拍。
「――『訂正します』」
頭の奥で、何かがばきんと鳴った。
訂正します。
今朝だけで三回聞いた。
ミヤビのケーキに。ルビの付箋に。自分の顔に。
この家で毎日、目覚まし時計みたいに鳴っていた言葉だ。
俺の字を守ったときも。
ガキどもの板を守ったときも。
照れくさいことを言いかけて、ごまかしたときも。
全部、同じ声だった。
五年前、ハナの額に触れた、あの声と。
息が、うまく吸えなかった。
膝の上で、自分の手が勝手に握りこぶしになっていた。
殴るためじゃない。何かにつかまっていないと、抜けた床ごと下へ落ちていきそうだった。
「その夜、上官に褒められました。『初めてにしては、きれいな訂正だった』と。……私はそれを、誇らしいと思いました。誇らしいと思ったことを、記録しました。その記録は、今も消せません」
床下で、ことりと音がした。
缶を握りなおす音だった。
「その子の背丈を、覚えていました。ひざをついたとき、目の高さがちょうど同じでしたから」
エルザは立ち上がって、部屋の隅の柱の前に立った。
小さな刻み目が並んでいる柱だ。子どもの字で、『ハナ 五さい』『ハナ 七さい』『ハナ 九さい』。いちばん上に、『ハナ 十さい』。
エルザは、自分の胸のあたりに手のひらを水平に当てた。
いちばん上の刻み目と、同じ高さだった。
「この家に来た最初の夜に、この柱を見ました。同じ高さだと思いました。でも、偶然だと思うことにしました。この街に、十歳の女の子はたくさんいますから」
「……いつ、わかった」
声がかすれた。
「念校に、耳もとで言われた日です。『五年前の、あなたの初めての執行記録。対象の兄の名前は、灰村■心』。……文字化けした名前を、私はほかに一人しか知りません」
柱から手を離す。
「それからずっと、言わなければと思っていました。言えませんでした。言ったら、あなたの隣に立てなくなる。そう思って、決戦の日まで黙っていました。卑怯です。記録します。私は、卑怯でした」
☆☆☆
怒鳴ろうとした。
口を開けた。何も出てこなかった。
目の前にいるのは、ハナの言葉を消した校閲官だ。
五年間憎んできた、銀色の面の中身だ。
ハナはあれから、「はい」と「いいえ」と「了解しました」しか言わない。
母さんはその夜から寝こんで、二年後に死んだ。
最後まで、ハナの話を一度もしなかった。
全部、こいつのあの一言から始まった。
なのに、怒りの行き先が見つからなかった。
こいつはこの家で、毎朝お湯を沸かしていた。
自分のスコアも顧みずに、ガキどもの字を守った。
生まれて初めて人を褒めて、空っぽになった俺を引き戻した。
昨日は目隠しをしたまま、「見てください。勝つためです」と言った。
憎むべき相手と、隣にいたやつが、同じ顔をしている。
どっちの顔に向かって怒ればいいのか、わからなかった。
「……なんで」
やっと出てきたのは、それだけだった。
「なんで、ここにいたんだ」
「最初は、知らなかったからです」
エルザはまっすぐ答えた。
「知ってからは。……離れられなかったから、です」
床下はしんとしていた。缶を開ける音もしなかった。
かまどの横で、六つの缶の湯気が、とっくに消えていた。
冷めないうちに、と言われたお湯だった。
『出ていけ』と言えば、こいつは本当に出ていく。
『いていい』と言えば、こいつは残る。
どっちも喉の手前で止まった。
どっちを言っても、ハナに顔向けできない。
どっちを言っても、こいつに顔向けできない。
長い沈黙のあとで、エルザが小さくうなずいた。
「わかりました」
何もわかっていないはずなのに、そう言った。
「あなたに、どちらも言わせません。私が決めます」
背筋が伸びた。
いつもの、まっすぐな、元一等治安官の立ち方だった。
「私は、ここを出ます」
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