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バグワード・バザー〜死語しか使えない底辺の俺が、完璧な管理都市をチョベリバにしてやる〜  作者: 則本潮


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ほの字【前半】

目が覚めたら、カナが俺の上着を着て寝ていた。


床の穴はまだ直っていない。

抜けた床板の向こうで、空き缶の山と昭和の雑誌の山が朝日を浴びている。

寝床をなくしたカナは、ゆうべ俺の隣で丸くなったらしい。


俺がかけてやった灰色の上着に、ちゃっかり袖まで通している。

胸の金の『瓊』がでかすぎて、裾がひざまで落ちていた。


その裾が、寝返りで太ももの付け根までめくれていた。


上着の下は、いつものぶかぶかのTシャツ一枚。

そのTシャツも一緒にめくれていた。

白い脚の、いちばん上のほうまで。


……落ち着け。俺は紳士だ。

下層区で一番の紳士だ。下層区に紳士が何人いるのかは知らない。


そっと裾を戻そうとした。


指が届く前に、カナの目がぱちりと開いた。


「……今、何しようとした」


「裾を戻そうとした」


「戻す前に、何秒見た」


「……二秒」


「三秒」


「数えてたのかよ」


「寝てても数えられる。床下の特技」


カナは上着の前を両手でかき合わせると、毛布にもぐった。


「……この上着、あったかい。返さない」


「俺のだぞ」


「知ってる。だから、返さない」


☆☆☆


土間に、エルザが正座していた。


いつからいたのかわからない。

窓の外はまだ薄青い。たぶん夜明け前からだ。


縮んだ白衣。ぴんと伸びた背筋。

いつもの朝と同じ格好なのに、一か所だけ違った。


ボタンが、全部ひとつずつずれていた。


一番上のボタンが二番目の穴に、二番目が三番目に。いちばん下だけが行き場をなくして、ぶらんと垂れている。

おかげで白衣の前が斜めに引きつれて、胸もとが片側だけ、ぱつんぱつんに盛り上がっていた。


「……エルザ。ボタン」


「承知しています」


エルザはまっすぐ前を見たまま言った。


「三回留め直しました。三回ともずれました。原因は不明です。……指が、言うことを聞きません」


膝の上で、両手が固く組まれていた。指の関節が白かった。


天井の板が、がたんと外れた。


「灰村さん、おはようございますわ! 本日は昨日の『宣言なさった日』の、記念ケーキのご相談を――三段でよろしくて?」


逆さまに生えてきたミヤビに、エルザが即座に言った。


「訂正します。二段で十分です。材料費が標準を超えます」


「エルザさんは夢がありませんわ!」


屋根の上からは、シズカとルビが降りてきた。

シズカの端末から、ゆうべの録音が漏れている。

『俺は、澄ました顔が――』

シズカはあわてて止めた。


「止めんな。いや止めろ。いや、やっぱ消せ」


「消さないよ。歴史的資料だ」


ルビの指先から、付箋が一枚、勝手にはがれて、ひらひらとエルザの背中に落ちた。


『こわい《かお》』


「ちょ、ちがっ、今のは勝手に――」


「訂正します。こわい顔ではありません。標準的な顔です」


エルザは背中の付箋をはがすと、裏に何か書いて、ルビのおでこに貼り返した。


『標準《です》』


「付箋で返された!?」


朝から三回目の「訂正します」だった。

こいつの「訂正します」は、うちの目覚まし時計みたいなもんだ。

聞かないと朝が始まらない。


かまどの横には、空き缶が六つ、きれいに一列に並んでいた。

どれにも湯気の立つお湯が、定規で測ったみたいに同じ高さまで注がれている。


「下層区の標準的な、朝食です」


いつもの言葉だった。

いつもより、ずっと小さな声だった。


「本日は皆さんの分を、全部先に用意しました。冷めないうちに、どうぞ」


六つ目の缶の横にだけ、干し芋が三枚添えてあった。俺の場所だった。


誰も、缶に手を伸ばさなかった。


「皆さん」


エルザが言った。


「少しだけ、席を外していただけますか。灰村瓊心に、話さなければならないことがあります。……約束を、守ります」


最初に動いたのは、ミヤビだった。

はしごを下りてきて、ルビとシズカの肩をぽんと叩く。


「朝市に参りましょう。ケーキの材料を買いに。……やっぱり四段にいたしますわ。時間が、かかるように」


明るい声だった。明るすぎる声だった。


出ていく前に、ミヤビは床の穴をのぞきこんだ。

穴の底で、カナが俺の上着の袖から指先だけ出していた。


「カナさん。その上着、わたくしの仕立てですわよ」


「知ってる。あったかい」


「……着心地のご感想は、あとで詳しくお聞かせくださいまし」


それ以上は何も言わなかった。言わないことを選んだ顔だった。


三人が出ていくと、家が急に広くなった。


「……私は床下。床、まだ直ってないけど。下にいる」


穴の中から、カナの声がした。


「聞かないふりは、しない。でも、しゃべらない」


毛布の塊が、穴の中へずるずる降りていった。

俺の上着ごと。


☆☆☆


エルザと、向かい合って座った。


「報告します」


エルザはそう言って、黙った。


「……報告、します」


もう一回言って、また黙った。唇が、形だけ動いた。


「報告――」


三回目で、うつむいた。


「申し訳ありません。報告の形にすると、言えません。報告は、数字と事実です。これは、どちらでもありません」


俺は黙って手を伸ばした。

エルザの白衣の、一番上のボタンに。


「……っ」


肩がびくりと跳ねた。


ボタンを外す。二番目も。

全部外して、一番上から、ひとつずつ正しい穴に留め直していく。

指の先が、白衣ごしに鎖骨に触れた。

心臓の音が、布の上からでもわかるくらい速かった。


「……灰村、瓊心」


「動くな。またずれる」


いちばん下を留めると、白衣の前がまっすぐになった。


エルザは自分の胸もとを見下ろして、それから俺を見た。


いつもなら、ここで「この、スケベ」が飛んでくる。飛んでこなかった。


それが、いちばん怖かった。


「……ありがとうございます。これで、言えます」


最後までお読みいただきありがとうございました。

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