ドロン【後半】
エルザの手が、俺の目から、そっと離れた。
墨の粒が、ゆっくりと降りてくる。
降りてきて、シノブの胸もとと、腰のまわりにだけ、ぴたりと貼りついた。
黒い、四角い帯の形で。
伏せ字の光だ。シノブのは、光じゃなかった。墨の、黒塗りだった。
まるで、検閲済みの書類だった。
全身が、白かった。
黒塗りの帯のほかには、何もなかった。
濡れたような黒髪が、白い背中を流れ落ちている。
細い首。薄い肩。腰のくびれから、すらりと伸びる脚。
立ち方だけが、まだ、いつもの念校のままだった。まっすぐ。微動だにしない。
「……おい。なんで平気なんだよ」
「平気、という状態の定義が、私には、ありません」
シノブは、右手を上げた。
指先に、墨が集まる。
裸のままでも、削除はできる。
感情が揺れないかぎり。
「念のため、全部――」
「――待て」
在庫は、残り一つ。
ポケットの中には、くすんだ金の結晶が一つ。
でも、今、撃つのは、どっちでもなかった。
「あんたに、言っときたいことがある」
シノブの指が、止まった。
「俺には、君は殺せないよ」
深く、息を吸う。
「性癖的な意味では、徹底的にやるけどね」
広場が、しんとした。
屋根の上で、シズカが「……出た」とつぶやいた。ミヤビが、なぜか両手で頬を押さえた。
「……意味が、理解できません」
「だろうな。だから、ちゃんと言う」
俺は、一歩、前に出た。裸の念校の、まっすぐ前に。
「俺は、澄ました顔が崩れる瞬間が、大好きな変態だ」
声が、広場に響いた。
もう、ごまかさない。着こなしの話でも、シャレオツ用語でもない。
「訂正しますって言ってたやつが、このスケベって叫ぶ瞬間が好きだ。ですわって言ってたやつが、きゃあって裏返る瞬間が好きだ。語源は? って聞いてたやつが、解析できないって泣きそうになる瞬間が好きだ。ダッサって言ってたやつが、読むなって叫ぶ瞬間が好きだ。三秒って数えてたやつが、大人だからって、口まで湯に沈む瞬間が、好きだ」
背中のほうで、誰かが息をのむ音がした。たぶん、五人分。
「あんたの、その何にも感じてない顔が、崩れるところが見たい。見るまで、帰らねえ。何回消されても、何回でも来る。毎日、あんたの前で、変態だって叫んでやる」
シノブの、黒い瞳が。ほんの少しだけ、揺れた。
三秒。
「……引きます」
初めて聞く、声だった。平坦じゃなかった。ほんのわずかに、かすれていた。
「今、私の中で、何かが、後ろに下がりました。……これは、何という、感情ですか」
「引いてんだよ、それ」
「……引いて、います」
くり返した瞬間、シノブの視線が、下に落ちた。
自分の、白い体に。黒塗りの帯のほかには、何もない、自分の体に。
「…………あ」
遅れてきた。
羞恥が、二十四年ぶんまとめて、追いついてきた。
シノブの白い首すじが、下から上へ、みるみる赤くなっていく。
耳まで。頬まで。
黒塗りの帯の縁から、肌が、桃色に染まっていくのがわかった。
シノブは、両手を上げた。隠そうとした。
隠し方を、知らなかった。
両手で、顔を覆った。
「ちがう、そこじゃねえ!!」
「……ど、どこを、隠せば、いいのですか」
「顔以外全部だよ!!」
指のすきまから、潤んだ黒い瞳が、俺を見た。
いつも何の色もなかった顔が、真っ赤に崩れて、唇が震えて、泣きそうで、怒りそうで、どうしていいかわからない顔をしていた。
――ああ。これだ。俺が見たかったのは、これだった。
「……ね、念のため……け、消し……」
シノブが、震える右手を、もう一度上げた。
指先の墨が、ぶるぶると揺れながら、広場ぜんぶを覆うくらいに広がっていく。
最後の、総削除。
もう、止まらない。
だったら――消すものを、なくせばいい。
俺は、くすんだ金の結晶を、握りしめた。
煙の匂い。子どもたちの笑い声。指を組んで、ふざけた顔で叫ぶ、古い遊び場の声。
「――ドロンッ!!!」
金色の煙が、広場いっぱいに、ぼわんと広がった。
板の字が。壁の字が。道標の字が。俺たちの口の中の言葉が。
みんな、ぱっと、煙の中に消えた。
隠れたんだ。忍者みたいに。一瞬だけ。
シノブの墨が、広場を覆った。
何も、なかった。消すものが、ひとつも、なかった。
『削除対象――なし。削除対象――なし。削除――』
墨が、空振りして、空振りして、石畳の上で、ただの水たまりになった。
金色の煙が、晴れる。板の字も、壁の字も、道標の字も、全部、そこにあった。
ドロンしていた言葉が、ちゃんと、帰ってきていた。
☆☆☆
俺は、そこで、膝をついた。S級の代償だ。腹の底が、空っぽになっていく。
倒れる前に、白いものが、俺の横をすり抜けた。
カナだった。カナは、自分の白衣を脱いで、両手で顔を覆ったままのシノブの肩に、ばさりとかけた。
白衣の下は、いつものぶかぶかのTシャツ一枚だった。
「……着て。ボタン、一番上まで」
「……あなたは」
「床下の住人。……二十五歳」
シノブは、白衣の前を、震える指で、一番上まで留めた。
それから、俺を見た。まだ、顔が赤かった。
「灰村……瓊心」
「……おう」
「あなたの、父の名を。……編集長は、覚えています」
それだけ言って、シノブは、白衣のすそを押さえながら、路地の向こうへ歩いていった。
足音が、した。初めて、足音がした。
石畳に倒れた俺の上に、影が四つ、落ちた。
「……灰村さん」
ミヤビが、真っ赤な顔で、俺を見下ろしていた。
「本日を、『灰村さんが変態だと宣言なさった日』として、毎年お祝いいたしますわ」
「やめろ。ケーキに書くな」
「三段ですわ」
ぺたん。おでこに付箋。
『へんたい《ほんもの》』
「……あたしのとこ、『読むな』って叫ぶ瞬間って。……そんなとこ、見てたんだ」
ルビは、ほどけたツインテールで顔を隠して、そっぽを向いた。
「……全文、録音した」
シズカが、屋根から降りてきて、端末を胸に抱えた。
「消せ」
「消さない。……興味深いから」
エルザは、何も言わなかった。ただ、俺の横にしゃがんで、喉を押さえたまま、首まで赤くなっていた。
床下の入り口から、Tシャツ一枚のカナが、ひょいと顔を出した。
「……知ってた」
☆☆☆
目が覚めたのは、夜だった。
毛布の上に、灰色の上着がかかっていた。
ミヤビが仕立てた、俺の上着だ。
隣で、カナが、Tシャツ一枚で丸くなって眠っていた。
白衣がないから、寒そうに膝を抱えている。
抜けた床の修理が、まだ終わっていないらしい。
俺は、上着を、カナの肩にかけてやった。
「……きょうも、ちゃんと、帰ってきた」
寝言なのか、起きているのか、わからなかった。
土間のほうで、エルザが座っていた。
眠らずに、俺が起きるのを、待っていたらしい。
「灰村瓊心。報告します。本日、あの宣言の最中に、『恥ずかしい』が、四回、発生しました」
「……四回も」
「発生条件は、すべて、灰村瓊心に、見られたとき、でした。……私のところを、言われたときは、二回、重なりました」
「数えんな」
「数えました」
エルザは、まっすぐ俺を見た。
「約束を、守ります。……明日の朝、全部、お話しします」
「……ああ」
「もし、話せなかったら――」
「逆に折る。わかってる」
エルザは、少しだけ笑った。
きのうより、ほんの少しだけ、壊れそうじゃない笑い方だった。
「おやすみなさい、灰村瓊心」
「おやすみ」
天井の上で、猫が鳴いた。屋根の上で、シズカとルビが寝息を立てていた。
床下は、今夜は空っぽだった。
上と、下と、外と、隣。いつもと、ちょっとだけちがう配置で、俺たちは、眠った。
――あなたの、父の名を。
目を閉じても、その声だけが、ずっと、耳に残っていた。
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