ドロン【中盤】
「念のため、全部、消します」
墨染シノブは、いつもと同じ声で言った。
新しい黒い上着。おとといの焼け跡も、ちぎった袖も、もうどこにもない。
何もなかったみたいに、きちんとしていた。
足もとから広がる墨が、広場の石畳をなめていく。
壁の落書きが消える。
看板の字が消える。路地の向こうの、誰かが軒先に貼っていた古い紙の字が、黒くにじんで、消える。
――残り、五。
「――ハッスルッ!!」
先制。
橙の字が、墨の上を走った。
墨が一瞬、ひるんだみたいに止まる。
「念のため」
シノブの指。
字がにじむ。消える。墨が、また動き出す。
――残り、四。
「エルザ!」
「訂正しますッ!」
エルザの声が、広場の真ん中の古い道標の字を、墨から一つだけ守った。
「ミヤビ!」
「今度は、外しませんわっ!」
屋根裏の窓から、針が三本。
シノブの両袖と、上着のすそが、石畳に縫いとめられる。
一秒。
「右手! 消すとき、必ず右の指先から墨が出てる!」
屋根の上から、シズカ。一言。ちゃんと一言だった。
「ルビ!」
「まかせてっ!」
ルビが、板きれを掲げた。
昨日の夜、みんなで書いた板だ。
俺の字。エルザの字。ミヤビの字。シズカの字。カナの字。
ルビは、それを、本気で読んだ。
「――『ムカ着火ファイヤー』!!」
読み上げられた字が、赤く燃えて、シノブの右手に飛びかかった。
既読にならない。
本気で読んだ字は、ルビの声のまま、言葉として生きている。
「初校。規程違反です」
「知ってる!」
その一瞬で、俺は、息を吸った。同じ気持ちの言葉を、二つ。続けて。
「――ムカ着火ファイヤーッ!! ――チョベリバッ!!」
――残り、二。
赤と青が、重なって飛ぶ。
『削除。――削除。――――』
シノブの右手が、赤を消す。
消した瞬間、青が、もう目の前にある。二つ目が、間に合わない。
バシュッ。
シノブの黒い上着の胸もとが、焼け落ちた。シノブの体が、初めて、一歩、後ろに下がった。
☆☆☆
「……修正します」
シノブは、焼けた胸もとを見下ろしもしなかった。
縫いとめられた袖を、自分で引きちぎる。
両腕がむき出しになる。気にしない。
「範囲を、拡大します」
墨が、跳ねた。
石畳だけじゃない。
空気の中に、黒い霧が立ちのぼる。
霧に触れたエルザの訂正が、言いかけたまま、かすれて消えた。
「……っ、声、が」
エルザが、喉を押さえた。
言おうとした瞬間の言葉が、喉の手前で、墨に吸われている。
ミヤビの針が、空中で黒く溶けた。
ルビの板の字が、にじみはじめた。
カナが、缶を二本、投げた。
ぼふん、と白い煙。
シノブのまわりの霧が、一瞬だけ薄くなる。
「一分!」
一分。それしかない。
ハッスルも、ムカ着火も、チョベリバも、もう撃った。
同じ手は、二度、通じない。
だったら、まだ誰も撃ったことのない手を使うしかない。
俺は、ポケットの中の、銀色の結晶を握った。
『……嘘つかれるくらいなら、折ったほうが、ましだった』
削除は、言葉を閉じて消す。だったら、閉じさせない。開く向きと、反対に。
「――逆パカッ!!」
――残り、一。
銀色の字が、ばきん、と音を立てて、空中で折れた。
折れた字が、墨の霧に突き刺さる。
霧が、止まった。
閉じようとしていた墨の流れが、ぎしぎしと軋んで――反対向きに、跳ね返った。
シノブの右手が、自分の墨に、押し戻された。
押し戻された墨が、シノブ自身の上着の上を、逆流していく。
黒い布が、ほどけた。
襟から、肩から、すそから。
黒い上着が、一枚ずつ、墨の粒になって、空へ散っていく。
上着の下の黒いシャツが溶けた。
スカートが、ひざの上まで、さらさらとほどけていく。
残ったのは、黒い下着だけだった。
飾りのない、黒。
スーツと同じ、墨の色。
細い体だった。
肩も腰も薄くて、骨の形がわかるくらい。
なのに、胸もとと腰のまわりにだけ、意外なほどやわらかな丸みがあった。
白い肌は、日に当たったことがないみたいに透きとおっていて、黒い下着との境目が、やけにくっきりしていた。
シノブは、自分の体を見下ろした。何の色も、浮かばなかった。
「問題ありません。念のため、続けてください」
「続けられるかっ!!」
叫んだのは、俺のほうだった。
目のやり場が、どこにもなかった。
「見ないでください、灰村瓊心」
背中から、エルザの両手が、俺の目をふさいだ。
声が、霧の切れ目から、やっと戻ってきていた。
「……いえ。見てください。勝つためです。……いえ、見ないでください」
「どっちだよ!」
「判断が、二秒ごとに変わります。原因は、不明です」
ぺたん、と、エルザの指の上から、付箋が貼られた。
『みるな』
「ルビ、目隠しの上に目隠しすんな!」
屋根裏の窓から、ミヤビが、仕立て用の布を一反、投げ落とした。
「シノブさん! お使いになって! わたくしの、いちばんいい生地ですわ!」
白い布が、ひらひらとシノブの頭上に舞い降りる。
シノブは、それを見上げた。
「念のため」
指が、動いた。
布が、墨の粒になって、消えた。
「布まで消すなーーっ!!」
「隠す理由が、ありません」
シノブは、首をかしげた。
それから、思い出したように、背筋を伸ばした。
「スーツの損壊率が、九割を超えました。校閲官服務規程に基づき、降伏定型文を読み上げます。……念のため」
「は?」
「――くっ、殺せ」
棒読みだった。
眉ひとつ、動かなかった。唇の形まで、教本どおりだった。
世界でいちばん感情のこもっていない「くっ、殺せ」だった。
それでも、定型文は定型文だった。
『――降伏定型文を受理。念校スーツ、強制解除』
黒い下着が、最後に、ほどけた。
「エルザ、手、どけるなよ! 絶対どけるなよ!」
「……了解しました。どけます」
「了解してねえ!!」
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