逆パカ【後半】
湯上がりの縁台は、静かだった。
五人とも、婆さんの貸してくれた浴衣を着ていた。
帯の結び方は、ミヤビ以外、全員でたらめだった。
シズカのは、なぜか背中で蝶結びになっていた。
エルザはまだ、ふにゃふにゃしていた。
縁台の端にもたれて、果物牛乳の瓶を両手で持ったまま、とろんと目を閉じている。
浴衣の衿が、片方だけずり落ちかけていた。
「……灰村瓊心。……もう、一本、ください」
「何本目だよ」
「三本目、です。……標準的、です」
標準的じゃない。
「で、作戦会議は」
俺が言うと、全員が、ぴたりと止まった。忘れていたらしい。
「念校の削除は、感情ゼロが条件だ。たぶん」
シズカが、端末から顔を上げた。まだ耳が赤い。
「二日前、ケイシンの攻撃で肩が焼けたのに、あの人の心拍は一回も上がらなかった。揺れないから、消せる。……揺らせれば、たぶん、消せない」
「揺らす、ねえ」
全員が、なぜか、俺を見た。
「なんで俺を見る」
「だって」
ルビが、指を折って数えた。
「ケイシン、あたしたち全員、揺らしてきたじゃん。顔、崩してきたじゃん。……さっきも」
「さっきのは事故だ!」
☆☆☆
それから、板を一枚、作った。
明日、ルビが掲げて読む板だ。一人ひとつずつ、自分がいちばん好きな死語を書く。
俺は、ムカ着火ファイヤー。エルザは、チョベリグ。ミヤビは、モーレツ。シズカは、しばらく迷って、ワロタ。カナは、何も言わずに、缶の底で「ドロン」と小さく書いた。
「なんでドロンなんだよ」
「……なんとなく」
最後に、筆を渡されたルビが、止まった。
「……あたし、いい」
「なんでだよ」
「だって、あたし、読む係だもん」
ルビは、浴衣のすそをいじりながら、笑った。
いつもの、ダッサって言うときの笑い方じゃなかった。
「あたし、ずっと、人の字ばっかり読んできたの。予定表とか、報告書とか、貼り紙とか。読んで、既読にして、終わり。……あたしの字を、誰かに読んでもらったこと、一回もないんだ」
縁台が、しんとした。
「……書けよ」
俺は、筆をルビの手に押しつけた。
「読んでやる。本気で」
ルビは、しばらく筆を見ていた。
それから、板のいちばん下のすみに、ふにゃふにゃの小さな字で、書いた。
『あたしも まぜて』
死語でも何でもない。
ただの、十九歳の、言いたかったことだった。
俺は、それを、声に出して読んだ。
「――あたしも、まぜて」
字が、光った。
既読にはならなかった。
ぼんやりと、湯上がりの頬みたいな色で、あたたかく光ったまま、板の上に残った。
「……あ」
ルビの目から、ぽろっと、一粒だけ落ちた。
「読まれるのって、こんな感じなんだ。……ダッサ。あたし、ダッサ」
ミヤビが、黙ってルビの頭を抱きよせた。
シズカが、端末を伏せた。
エルザが、果物牛乳の瓶を、そっとルビの手に持たせた。
縁台の下から、カナの手が伸びて、ルビの浴衣のすそを、ちょんと一回だけ引っぱった。
☆☆☆
その夜、雨が降った。
言葉の雨だった。
屋根を叩く音にまじって、ころん、ころんと、結晶が路地に落ちてくる。
月に一度の、バザーの夜だ。
いつものとおり、カナは「寝る」と言って床下にもぐった。
バザーの広間のいちばん奥。
ランプがひとつだけの、薄暗い隅。
仮面の店主は、いつもの場所に座っていた。
ぶかぶかの黒いマント。真っ白な仮面。小さな背丈。
マントの裾から、かすかに、湯上がりの石けんの匂いがした。ことぶき湯の、あの石けんの匂いだった。
「……明日、念校が来る」
仮面が、こくんとうなずいた。
知っている、という顔だった。
店主は、マントの奥から、結晶をひとつ取り出した。
折れた貝殻みたいな形の、銀色の結晶だった。
手のひらに落とされる。残響が、流れこんできた。
――女の子の声。
泣いている。怒っている。
手の中で、何かを、反対向きに、ばきっと折る音。
『……嘘つかれるくらいなら、折ったほうが、ましだった』
『逆パカ』という言葉が、胸の底に落ちた。
二つ折りの電話を、開く向きとは逆に折る。
二度と閉じられないように。
削除は、言葉を閉じて、消す。
だったら――閉じさせない。
店主は、指を一本立てた。それから、その指を、くいっと反対向きに曲げてみせた。
「……あんた、なんでいつも、俺が欲しいもんを、知ってるんだ」
仮面は、答えなかった。
ほんの少しだけ、上を向いた。
石けんの匂いと、くそ苦い缶コーヒーの匂いが、いっしょにした。
☆☆☆
家に戻ると、軒下に、エルザが立っていた。
浴衣のまま。雨に濡れた銀髪が、首すじに張りついている。
「……眠れませんでした」
エルザは、俺の手の中の結晶を見た。
手のひらを近づけると、あの女の子の声が、もう一度、小さくこぼれた。
『嘘つかれるくらいなら――』
エルザが、ぎゅっと目を閉じた。
「……灰村瓊心。お話ししなければならないことが、あります。五年前。私は、見習いでした。初めての、執行で――」
そこで、言葉が止まった。
エルザの唇が、震えていた。言葉は、もう、喉のすぐ手前まで来ている。
それを、押し出せないでいる顔だった。
数字も、規程も、どこにもない。
ただの、二十二歳の女の人の、泣きそうな顔だった。
……崩れた顔が好きだなんて、言ってる場合じゃない。
この顔だけは、崩したくなかった。
「……申し上げ、られません」
エルザは、うつむいた。
「今は、まだ。……言ったら、明日、あなたの隣に、立てなくなる気がします」
雨の音だけが、しばらく続いた。
「なら、明日のあとでいい」
俺は言った。
「明日、全部終わったら、聞く。どんな話でも、聞く。……約束だ」
「……約束、ですか」
「ああ」
エルザは、しばらく俺を見ていた。
それから、俺の手の中の銀色の結晶に、そっと指を触れた。
「では、私も、約束します。明日のあと、全部、お話しします。……もし、私が、その約束を破ったら」
エルザは、ほんの少しだけ、笑った。
初めて見る、壊れそうな笑い方だった。
「そのときは、私を、逆に折ってください」
「……意味、わかって言ってんのか」
「わかりません。でも、そういう気持ちの言葉だと、思いました」
天井の上で、ミヤビが寝返りを打つ音がした。
屋根の上では、シズカとルビが、まだ何かしゃべっていた。
床下では、缶を開ける音が、一回だけ。
上と、下と、外と、隣。
みんな、起きていた。
みんな、明日のことを考えていた。
「……寝ろ。明日、早いぞ」
「はい」
エルザは、隣の毛布にもぐりこむ前に、一度だけ振り返った。
「灰村瓊心。……おやすみなさい」
「おう。おやすみ」
床下から、小さな声がした。
「……おやすみ。明日、勝つよ」
カナの声だった。
いつもより、ほんの少しだけ、石けんの匂いがした。
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