逆パカ【中盤】
事故は、そのあとすぐに起きた。
「ねえ、この壁のいちばん上の貼り紙、なんて書いてあるの? 字、ちっちゃ――」
ルビの声。
みしっ。
板壁が、鳴った。
「ルビさん、背伸びしてもたれては――」
「だって読めないんだもん! 読めない字があると、むずむずするの!」
めきめきめきっ。
古い板壁が、女湯のほうから、男湯のほうへ、まるごと倒れてきた。
俺は、湯船から立ち上がるのが、一拍遅れた。
ばっしゃーん。
湯しぶき。木くず。湯気。
倒れた板の上に、ルビが、ちょこんと乗っかっていた。
☆☆☆
湯気が、晴れていく。
晴れていくのに、ところどころだけ、晴れない。
胸もとと、腰のあたりにだけ、白い湯気の塊が、ふわふわと貼りついて離れない。
――検閲湯気。
本当に、ついていた。
五人分の、湯上がりの肌が、目の前にあった。
最初に気づいたのは、ルビだった。
いや、気づかなかった。
「あ、ケイシン。ねえ、やっと読めた。『浴槽にタオルを入れないでください』だって。ダッサ!」
ルビは、俺の前に仁王立ちしたまま、はがした貼り紙を、得意げに読み上げていた。
濡れた赤いツインテールが、肩から胸へ張りついている。
白い首すじ。細い腰。
湯にあたためられて、全身が、ほんのり桃色だった。
胸もとの検閲湯気は、少しだけ小さかった。小さいぶん、その下の丸みの輪郭が、くっきり見えた。
「……ルビ」
「なに?」
「下」
ルビは、自分の体を見下ろした。
それから、俺の視線の先を、目でなぞった。胸もと。おなか。太もも。
三つ目で、止まった。
「ぎゃーーーーっ!!」
色気のかけらもない悲鳴だった。
ルビは両腕で胸を抱えてしゃがみこんだ。
しゃがんだ拍子に、背中からお尻にかけての、なめらかな線が、湯気のすきまから丸見えになった。
「見るな見るな見るなっ! 読むな! あたしを読むなぁっ!」
「読んでねえ!」
「ケイシンの目が、あたしの体に付箋貼ってる! 『ここ』『ここも』って!」
「貼ってねえよ!!」
二番目は、ミヤビだった。
「きゃあああああああですわーーーっ!!」
長く尾を引く悲鳴。
ミヤビは、タオルを探して、湯船のまわりを走り回った。
走り回るたびに、検閲湯気が追いつけなくて、ふわっ、ふわっと、半拍遅れてついていく。
豊かな胸が、走るたびに、湯気の中で弾んだ。白い太もも。長い脚。屋根裏暮らしで少しだけ日に焼けた二の腕と、焼けていない胸もとの白さの差が、やけに目に焼きついた。
「た、タオル! タオルはどこですの!? ……わ、わたくし、こう見えて、脱いだらすごいんですのよ! ……って、なにを言わせますのーーっ!!」
「誰も言わせてねえ!」
「湯気さん! もっと速く! あなた、それでも認可品ですの!?」
『――処理が、追いつきません』
湯気が、しゃべった。
「しゃべんのかよ!」
シズカは、声が出なかった。
湯船の中で、膝を抱えたまま、口だけをぱくぱくさせていた。
洗いたての黒髪が、頬と首に、濡れて張りついている。
湯にひたった肩が、桃色を通りこして、赤い。
抱えた膝に、胸がやわらかく押しつぶされて、その形が、湯気の端からはみ出していた。
「……し、心拍……いや、解析するな僕……君の視線の滞在時間、胸が、二・四秒……いや、言わない、言わない……っ」
「数えんな!」
「君の網膜の記録、削除して……! 念校に頼んでもいいから……っ!」
「それはシャレにならねえ!」
エルザは、悲鳴をあげなかった。
湯船のふちに、くたっと崩れたまま、とろんとした目で、俺を見上げていた。
ミヤビの肩もみのせいで、まだ、体じゅうの力が抜けていた。
濡れた銀髪が、湯の上に広がっている。長い首。
湯船のふちに押しつけられて、むにゅっと形を変えている、大きな胸。検閲湯気が、必死にそのあたりを覆っているけど、明らかに、面積が足りていない。
「……灰村、瓊心……?」
ろれつが、回っていなかった。
三秒かけて、自分の格好と、俺の位置と、倒れた壁を、順番に見た。
無表情のまま、首から、耳から、全身が、みるみる赤くなった。
「……状況を、報告、します」
エルザは、腕で胸を隠しながら、律儀に言った。
腕で寄せたせいで、谷間が、よけいに深くなった。
「本日の私は……灰村瓊心に見られる可能性を、考慮せずに、入浴して、おりました。……訂正、します。少しだけ……考慮、しました」
「何を考慮したんだよ!」
「……この、スケベッ!!」
桶が飛んできた。
こーん、と、いい音がした。俺のおでこで。
☆☆☆
最後は、カナだった。
カナは、湯船のいちばん奥の、すみっこにいた。
悲鳴は、あげなかった。一拍おいて、平坦な声で。
「……見た」
小さい。肩も、腕も、ほかの四人より、ひとまわり小さい。
胸も、湯気がほとんど仕事をしなくていいくらい、ささやかだった。
なのに。
湯から出た肩のなだらかな線。
濡れた前髪の下の、とろんと重たいまぶた。
きゅっとくびれた腰から、湯の中へ続いていく、なめらかな曲線。
湯気ごしでもわかる、肌のきめの細かさ。
いつもぶかぶかの白衣の中に隠れていたのは、ちゃんと、二十五年を生きてきた、大人の女の人の体だった。
俺は、目をそらすのが、いちばん遅れた。
カナは、それを、見逃さなかった。
「……今の、三秒より、長かった」
「……」
「小さいって、思ったでしょ」
「……思ってねえ」
「嘘。……でも、いい。大人、だから。平気」
平気な声じゃなかった。
カナは、肩まで湯に沈んだ。
それから口もとまで沈めて、ぶくぶくと泡を立てた。
耳の先だけが、湯の上で、赤かった。
しばらくして、湯から目だけを出して、俺を見上げた。
「……感想。……一言で」
「……大人だった」
カナは、もう一度、ぶくぶくと沈んだ。
湯の表面に浮かんだ泡が、なんだか、笑っているみたいに見えた。
「――はい、そこまで」
番台から、ことぶき湯の婆さんの声が飛んできた。
「壁の修理代、坊主に、つけとくからね」
「俺かよ!!」
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