逆パカ【前半】
「念校、明日の昼に来るよ。この区画の言葉、ぜんぶ消すって。……上で、そういう予定表、読んじゃった」
その日の夕方、ルビは上層区から、こっそり下りてきた。
白と朱のスーツの上に、ぶかぶかの外套。
変装のつもりらしい。
ただ、外套のすそから付箋が何枚もはみ出していて、それが歩くたびに、勝手に読み上げを続けていた。
『がいとう《かりもの》』『へんそう《できてない》』
「……おまえの服、正直だな」
「うるさい! これでも、上ではバレてないんだから!」
ルビは、読んだものを全部しゃべってしまう。
だから上では、情報提供者として重宝されている。
本人は、それを少しだけ気にしていた。
「だから、今夜は、みんなで集まろうと思って。作戦会議。……と、お風呂」
「なんで風呂なんだよ」
「だって、シズカが、三日同じ服だし」
「……解析が、忙しかったんだ」
屋根の上から、シズカが目をそらした。
首もとの襟が、くたっとよれていた。
「わたくしも、屋根裏の猫の毛を、そろそろ落としたいですわ。昨夜は三匹、わたくしの胸の上で寝ましたのよ」
「私も、行きます」
エルザが言った。いつもより、声が小さかった。
二日前の「五年前」から、エルザはずっと、こんな調子だった。
床板が、五センチ持ち上がった。
「……三日に一回。今日、その日」
「おまえ、自分で決めた日付、守るんだな」
「あなたが決めた」
カナは、白衣の袖で口もとを隠して、床板を閉じた。
☆☆☆
風呂の前に、ひとつだけ、練習をした。
「明日は、全員で動く。見てるだけのやつは、なしだ」
路地の真ん中に、板きれを一枚立てた。シノブの代わりだ。
「エルザは盾。消されそうな字を、一つだけ訂正で守れ。ミヤビは針で、相手を一秒止める。シズカは屋根の上から、弱いところを一言で叫べ。解説はあと。ルビは、書いた字を本気で読め。既読にしないで、声にする。カナは」
「缶」
「……おう。缶で」
一回目は、ひどかった。
「弱点は、右手の――いや、正確には右手の指先から肘にかけての墨の流路で、流量が毎秒――」
「長え! 一言って言っただろ!」
「……一言に、収まらない」
ルビは、板きれの前で、固まっていた。
「も、く、め。ふし。ささくれ。あ、ここ、虫くってる。むし、くってる……」
「木目を読むな!」
エルザの訂正は、なぜか、俺の足もとの字を守った。
「……灰村瓊心の字が、消されそうに見えました」
「消されそうなのは板だ!」
二回目。
「ミヤビ、針!」
「はいですわっ!」
ひゅっ、と飛んだ三本の針が、板きれを外れて、エルザのスカートのすそを、ばすんと後ろの塀に縫いつけた。
エルザは、気づかずに、一歩、前に出た。
すそだけが、塀に残った。
するするっ、と、紺のスカートが、うしろからめくれ上がる。
まっすぐな長い脚。太ももの、いちばん白いところ。
その上に、きちんとした白い下着の縁が、一瞬だけ、夕日の中にのぞいた。
「……報告します」
エルザは、真顔のまま、後ろ手でスカートを押さえた。
「現在、私のスカートが、標準的な位置にありません」
「見ればわかる!」
「灰村瓊心。今、見ましたね」
「おまえが報告したんだろ!」
「ミヤビさん。針を、抜いてください。至急です。……至急です」
二回言った。耳が、真っ赤だった。
「ご、ごめんあそばせ! 一秒どころか、エルザさんを十秒止めてしまいましたわ!」
「止める相手がちがう!」
三回目で、ようやく、全員の手がそろった。
シズカが「右手!」と一言で叫んだ。
ルビが、板に書いた字を、木目じゃなく、字だけ読んだ。
エルザの訂正が、ちゃんと板の字を守った。
ミヤビの針が、板の端をきれいに縫いとめた。
カナの缶が、ぼふんと白い煙を上げた。
板きれの前で、五人の声と、俺の声が、ひとつに重なった。
悪くない、と思った。
☆☆☆
ことぶき湯は、下層区で一軒だけ残っている銭湯だ。
入り口に、ロゴスの認可証が貼ってある。
『品位条項適合施設』その下に、小さく、『検閲湯気装置 設置済み』
「品位条項に引っかかる部位を、人の目線から自動で隠す湯気だよ。……だから、安心して」
「何が安心なんだよ」
ラジ爺は、ガキどもを寝かしつけに帰った。
男湯は、俺ひとりだった。
女湯とのあいだには、古い板壁が一枚。
上のほうが少しすいていて、湯気と声が、筒抜けだった。
「わあ、ひろーい!」
ルビの声。それから、ばしゃん、と派手な水音。
「ルビさん、走ってはいけませんわ! はしたな――きゃっ、つめたっ!」
「シャワー、こっち、水しか出ない」
カナの、平坦な声。
「シズカさん、髪、洗ってさしあげますわ。……まあ、三日分。泡が、立ちませんわね」
「……言わないで」
俺は、湯船のふちに頭をあずけて、天井を見ていた。
見ていたんだ。天井を。
「エルザさん。肩が、ずいぶん凝っていらっしゃるのね」
ミヤビの声だった。
「標準的です。……っ」
「ここ、ですわね?」
「……んっ」
湯気の向こうで、エルザの声が、小さく跳ねた。
「そ、そこは……ぁ、っ……訂正、します……そこ、では……んんっ……」
「まあ、かちかち。ずっと、気を張っていらしたのね。……ほら、力を抜いてくださいまし」
「ぬ、抜け、ません……っ、あ……そこ、だめ、です……ふぁ……」
男湯の湯が、ぬるく感じた。いや、たぶん、俺の体温が上がっただけだ。
「……灰村瓊心」
板壁の上のすきまから、カナの声が降ってきた。
「今、何、想像した」
「肩もみだろ! 肩もみの想像しかしてねえよ!」
「肩もみの、どこを」
「肩だよ!!」
「……ふにゃあ」
最後に聞こえたのは、エルザとは思えない、とろけきった声だった。
「……標準的、です……」
湯気の向こうで、何かが、くたっと湯船のふちに崩れる音がした。
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