パープリン【後半】
広場の隅で、タクトが、板を抱えて座りこんでいた。
板は、まっさらだった。
炭を握って、何かを書こうとしては、手が止まる。
書きかけて、止まる。それを、何回も繰り返していた。
「タクト」
俺は、隣にしゃがんだ。
「何、書いてたんだ」
タクトは、首を横に振った。
「……わかんない」
「わかんない?」
「毎日、書いてたやつ。毎朝、母ちゃんに見せてたやつ」
タクトは、路地の先を見た。
そこでは、タクトの母親が、箒で通りを掃いていた。
リビング・ドール。
二年あまり前から、昼間はずっと、ああして同じ道を掃いている。
「母ちゃんが、おれを怒るときに、言ってたやつ。怒ってるのに、笑ってた。……ドールになる前の、最後の、母ちゃんの言葉」
タクトの指が、板の上をなでた。
何も書いていない板を。
「それだけ、覚えてたのに。それ書いて見せたら、母ちゃん、ちょっとだけ、箒が止まる気がしたのに」
タクトは、笑った。
ぜんぜん、笑えていない顔で。
「……なんだっけ。にいちゃん、知ってる?」
俺は、知らなかった。
タクトが毎朝、何を書いていたのか。
誰に見せていたのか。
俺は、一度も、ちゃんと見ていなかった。
「シズカ」
屋根の上に、声をかけた。
シズカが、端末を抱えて降りてきた。目が赤かった。
「……今日の広場の記録なら、ある」
シズカは、端末の画面をタクトに見せないように、俺だけに向けた。
朝のタクト。
板を掲げて、母親に手を振っている。
板の字が、小さく写っていた。
『パープリン』
「……昭和の、悪口だ」
シズカが、小さな声で言った。
「頭がからっぽ、っていう意味。語源は、諸説ある。……でも、本気で怒ってる人は、たぶん、この言葉を選ばない」
「……ああ」
怒ってるのに、笑ってた。
そういう言葉だ。
「タクト。おまえが書いてたのは、パープリン、だ」
タクトが、俺の口もとを見た。
シズカのときと、同じ顔だった。
「……パー……」
言いかけて、止まる。
「……ごめん。もういっかい」
「パープリン」
「……うん。きこえた。きこえたんだけど」
タクトは、自分の頭を、両手で押さえた。
「入ってこない。あたまに、穴があいてるみたい」
ミヤビが、何も言わずに、タクトの隣に膝をついた。
泥のついたワンピースの裾が、地面に広がる。
「わたくしの、おばあさまもね。言葉を、なくしましたの」
タクトが、ミヤビを見上げた。
「でも、おばあさまのことを好きだった気持ちは、わたくしの中に、ちゃんと残っていますわ。……言葉より、ずっと、しぶといものですのよ。気持ちって」
タクトは、黙って、板を胸に抱いた。
泣かなかった。泣いたら負けだと、思っているみたいに。
床板が、五センチだけ持ち上がった。
すきまから、缶コーヒーが一本、ころころと転がってきて、タクトの膝に当たって止まった。
「……ブラック。子どもは、まだ飲めないやつ」
カナの声だった。
「大人になったら、飲んで。それまで、持ってて」
タクトは、缶を両手で握った。
言葉じゃないものを、握るみたいに。
☆☆☆
夕方、路地に西日が差した。
タクトの母親は、まだ同じ道を掃いていた。
しゃっ、しゃっ、と、規則正しい箒の音。
タクトは、まっさらな板を持って、母親の背中のほうへ歩いていった。
いつもの時間なんだろう。
毎朝と、毎夕。
字を書いて、見せる時間。
タクトは、板を掲げた。
何も書いていない板を。
母親の箒は、止まらなかった。
しゃっ、しゃっ。
タクトの腕が、ゆっくり下がっていく。
――ふざけんな。
腹の底で、何かが煮えた。
念校に。ロゴスに。何もできなかった俺に。
毎日この路地にいたくせに、あいつが誰に何を見せていたのかも知らなかった、パープリンな俺に。
在庫は、残り一つ。
人前で、本気で叫べば、粛清の光が落ちる。
三校は、もう、いない。
知るか。
俺は、タクトの横に立った。
母親の背中に向かって。タクトの代わりに。タクトの母ちゃんが、怒りながら笑っていた、その声のつもりで。
「――パープリンッ!!」
黄色い字が、夕焼けの路地に、ぱっと散った。
箒の音が。
しゃっ。
……一拍だけ、遅れた。
気のせいかもしれない。
でも、俺には、そう聞こえた。
タクトは、俺を見上げた。
「……いま、なんて言ったの?」
「おまえのことだよ」
俺は、タクトの頭をぐしゃっとなでた。
「おまえの母ちゃんが、おまえを呼ぶときの言葉だ。おまえがもう持てないなら、俺が持っててやる。毎朝、毎晩、言ってやる」
タクトの口が、への字に曲がった。
「……ずるい。おれ、覚えてらんないのに」
「覚えてなくていい」
タクトは、その言葉を覚えていられない。
でも、さっき箒が遅れたことは、たぶん、見ていた。
言葉は消されても、そのとき胸があったかくなったことまでは、消せない。
シズカがそうだったみたいに。
『――警告。廃語の発話を検知。粛清を開始します』
空のスピーカーが、いつもの声で鳴った。
『残り、三百秒』
「……さて」
俺は、タクトを小脇に抱えた。
あの日と、同じ格好で。
「逃げるぞ」
「うん」
タクトは、俺の脇の下で、鼻をすすった。
カナの缶を、胸に抱えたまま。
それから、空に向かって、大きな声で数えはじめた。
「さんびゃく! にひゃくきゅうじゅうきゅう! にひゃくきゅうじゅうはち!」
「数えんでいい」
「数える! おれ、これは、覚えてるもん!」
タクトの声が、夕焼けの路地に響いた。
屋根の上から、ミヤビが叫んだ。
「灰村さん! 右の路地、空いておりますわ!」
床下から、ぼふん、と煙が上がった。カナの缶だ。
シズカが、屋根づたいに並走しながら、端末をかざす。
「光の着弾、二十秒後! 三つ先の角まで!」
みんな、走っていた。
背中のほうで、エルザが、ひとりで立ち尽くしているのが見えた。
いつもなら、真っ先に走ってくるのに。
エルザは、走ってこなかった。
自分の両手を、じっと見下ろしていた。
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