パープリン【中盤】
シノブが来たのは、昼過ぎだった。
足音はなかった。
気づいたら、広場に、黒い服の女がいた。
広場では、ガキどもが字の遊びをしていた。
板きれに炭で死語を書いて、見せ合って、笑う。
声に出したらスコアが飛ぶ。
だから、書く。
それがこの路地の、新しい遊びだった。
今日の一番人気は、ミヤビの出題だった。
「では、次の言葉ですわ。『ルンルン』……気分がよくて、足が勝手にはずむときの言葉ですのよ」
ミヤビが、ワンピースの裾をつまんで、くるりと一回まわってみせる。
ガキどもが、声を殺して、板の上でルンルンを書いた。
書きながら、肩をはずませていた。
縁台では、ラジ爺が、ガキどもの字を一枚ずつ眺めては、地面に指で花丸を描いていた。
その花丸の横に、黒い靴の先が、音もなく並んだ。
シノブは、一番近くにいたガキの板を、のぞきこんだ。
『チョベリグ』
「念のため」
細い指が、板の上をなでた。
炭の字が、墨を垂らした水みたいに黒くにじんで、消えた。
板を持っていたガキが、きょとんと首をかしげた。
「……あれ? おれ、いま、なに書いてたっけ」
「――おいッ!!」
俺は、もう走っていた。
在庫を探る。
今日はまだ、四つある。
――残り、四。
「――ムカ着火ファイヤーッ!!」
赤い字が、炎みたいに渦を巻いて飛んだ。
シノブの左肩に、まともに当たる。
バシュッ。
黒い上着の肩口が、焼け落ちた。
白い肩が、むき出しになった。
シノブは、自分の肩を見下ろした。
顔色ひとつ、変わらなかった。
「問題ありません。念のため、続けてください」
「……は?」
続けてください、じゃねえよ。
痛いとも、寒いとも言わない。
穴のあいた上着を、直そうともしない。
焼けたのが自分の肩じゃないみたいな顔だった。
――こいつ、本当に、何も感じてないのか。
「念のため」
シノブが、宙に残った赤い字の残り火をつまんだ。
にじむ。消える。
――残り、三。
「灰村瓊心。あなたの中は、消せません」
シノブは、淡々と言った。
「あなたのチップは、壊れているので。削除が、届きません」
「だったら――」
「ですので」
シノブは、くるりと背を向けた。
ガキどものほうへ。
「周りから、消します」
「エルザッ!」
「訂正しますッ!」
エルザの声が飛んだ。
シノブの指先から伸びた黒いにじみが、タクトの板の手前で、ばちんと弾かれる。
「ミヤビ!」
「わかっておりますわ!」
ミヤビの針が三本、ひゅっと飛んだ。
シノブの袖が、地面に縫い止められる。
一秒。
「――チョベリバッ!! ――マジ卍ッ!!」
――残り、一。
青と紫の字が、シノブの背中に向かって、重なって飛んだ。
シノブは、振り返りもしなかった。
縫い止められた袖を、自分で、びりっと引きちぎった。
片腕がむき出しになる。気にしない。
そのまま、空いた手のひらを、広場いっぱいに向けた。
「念のため、全部、消します」
黒が、広がった。
俺の青と紫が、触れたそばから墨に溶けた。
エルザの訂正が、二枚目で押し負けた。
ミヤビの針が、からんと地面に落ちた。
広場じゅうの板の字が、いっせいに、にじんだ。
『ナウい』『イケイケ』『バッチグー』『ルンルン』――。
ガキどもが書いた字が、ひとつ残らず、黒く溶けて、消えた。
さっきまで肩をはずませていた女の子が、板を見下ろして、首をかしげた。
「……ミヤビねえちゃん。あたし、いま、なんで、まわってたの?」
ミヤビの唇が、震えた。
「……ルンルン、ですわ。ルンルン、と、言いますのよ」
女の子は、困ったように笑った。
「……ごめんね。きこえるけど、わかんない」
☆☆☆
三手目で、終わった。
広場に面した店の床板が、がたんと持ち上がった。
カナが、そこから半分だけ体を出していた。
白衣を、ボタンも留めずに引っかけている。
手には、ふたの開いていない缶コーヒー。
煙幕を投げる間も、なかったらしい。
「……裏口、使えない」
カナは、黒く溶けた板の字を見つめたまま、言った。
「誤検知は、減点を消すだけ。消された言葉は、戻せない。……戻す場所が、ない」
「カナ」
「あれ」
カナの指が、シノブの背中を指した。
いつもの平坦な声だった。
でも、缶を握る指の関節が、白くなっていた。
「あれ、『削除』。……七年前に、私が止めたはずの、仕様」
「は?」
カナは、答えなかった。
缶を開けもしないまま、床下に引っこんだ。
床板が、ことりと閉じた。
俺は、広場のまんなかで、立ち尽くしていた。
在庫は、残り一つ。
でも、撃つ相手を間違えたら、また誰かの字が消える。
シノブは、片袖のない黒い上着のまま、ガキどもを一人ずつ見て回っていた。
泣きそうな顔、ぽかんとした顔、自分の板をひっくり返して裏を探している顔。
シノブは、そのどれにも、何の色もない目を向けた。
それから、エルザの前で、足を止めた。
エルザが、一歩下がった。
シノブは、エルザの耳もとに、何かをささやいた。
俺のところまでは、聞こえなかった。
風の音にまぎれて、ひとことだけ。
「――五年前」
それだけが、聞こえた。
エルザの顔から、血の気が引いた。
いつもの、無表情の白さじゃなかった。
紙みたいな、生きていない白さだった。
シノブは、エルザから離れると、俺のほうを向いて、小さく頭を下げた。
「本日の削除は、以上です。……念のため、また来ます」
足音もなく、シノブは路地の向こうへ消えた。
「エルザ」
俺は、エルザの肩をつかんだ。
「何を言われた」
エルザは、俺の手を見下ろした。
長いこと、見下ろしていた。
「……申し上げられません」
声が、震えていた。
数字も、規程も、どこにもなかった。
「……標準的な、雑談です」
嘘だ、と思った。
でも、それ以上、聞けなかった。
聞いたら、エルザが、どこかへ行ってしまいそうな顔をしていたから。
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