パープリン【前半】
あったかい。
目が覚める前に、まずそう思った。
毛布の中に、何かがいる。
俺の脇腹に、ぴったりくっついている。
小さくて、やわらかくて、コーヒーのにおいがする。
薄く目を開けた。
カナだった。
白衣を着ていない。
ゴミ山で拾ったぶかぶかのTシャツ一枚で、俺の毛布の中に丸まっていた。
襟ぐりが大きくずれて、白い肩がまるごと出ている。
その肩に、細い黒の肩ひもが一本、ゆるく引っかかっていた。
Tシャツの裾は、太ももの付け根のあたりで止まっている。
そこから先の脚は、何も隠していなかった。
「…………」
小さい。それは知っている。
いつも床板のすきまから見上げてくる、あの小ささだ。
でも、腕に当たっている腰のくびれも、毛布の中でこすれる脚のなめらかさも、首すじから立ちのぼる、寝起きの体温のにおいも――。
どうしようもなく、大人の女の人だった。
「……けいしん」
カナが、寝ぼけた声で言った。
いつもの「灰村瓊心」でも「ケイシン」でもない。
舌足らずに、ひらがなで。
細い腕が、俺の胴に回された。
ぎゅっと、しがみつかれる。
胸のあたりに頬をこすりつけて、カナは、ふにゃっと笑った。
「……きょうも、いる。……よかった」
心臓が、変な音を立てた。
動けない。動いたら、起きる。
起きたら、たぶん、俺が死ぬ。
「灰村瓊心」
上から、声が降ってきた。
エルザが、毛布の横に正座していた。いつから。
「現状を報告します。黄泉坂カナが、灰村瓊心の毛布に侵入しています。侵入時刻は午前四時十二分。私は、それを、二時間四十八分、見ていました」
「止めろよ!」
「止める規程が、ありませんでした」
エルザは、真顔のまま、ぴしりと背筋を伸ばした。
「なお、治安官服務規程・生活条項第三条によれば、同一の寝具を二名以上で使用することは、標準的な生活様式から逸脱しています。逸脱の程度は、第一段階が『隣接』、第二段階が『接触』、第三段階が『密着』、第四段階が――」
エルザの朗読が、えんえんと続いた。
縮んだ白衣の胸が、条文を一つ読み上げるたびに、律儀に上下している。
こいつは朝っぱらから、何を言っているんだ?
……その胸、むにっと揉んで黙らせてやろうか――。
(――むにっ。
「訂正します。そこは、規程の第五段階です。……訂正します。私は、何を訂正しているのですか」
エルザの顔が、ゆっくり真っ赤に染まって、
「この、スケベッ!!」
妄想の中の俺は、妄想の中のエルザに、全力で殴られた。)
――いや、しねえよ。したら人生が終わる。
それより、この澄まし顔が規程を読み間違えて詰まる瞬間のほうが、ずっと見たい。
「灰村瓊心。今、瞳孔が、不健全な開き方をしました」
「してねえ」
「第四段階は、『密着』の継続、です。……現在の状態です」
「わざわざ読み上げんな!」
天井の板が、ずれた。
屋根裏の穴から、金色の巻き髪が逆さまに垂れ下がってきた。
「……朝から、何を、なさって、ますの」
ミヤビだった。逆さまのまま、顔だけ真っ赤だった。
「わ、わたくしの真下で! 同じ毛布で! ふしだらですわーーっ!!」
「俺は寝てただけだ!」
「寝ていらしたなら、なおさらですわ!」
そのとき、腕の中で、カナが身じろぎした。
重たいまぶたが、ゆっくり持ち上がる。
徹夜明けの、とろんとした目。
それが、俺の顔を見て、自分の格好を見て、俺の腕がどこにあるかを見て、天井の逆さまのミヤビを見て、正座のエルザを見て――。
三秒、止まった。
「……見た」
「見てねえ」
「肩。脚。……あと、下着の、ひも」
カナは、平坦な声で、一つずつ数えた。
それから、Tシャツの裾を両手で引っぱった。
引っぱった分だけ、襟ぐりがずり下がって、反対の肩まで出た。
あわてて襟を引き上げたら、今度は裾がめくれて、黒い下着のふちが、ちらりとのぞいた。
「……っ」
裾。襟。裾。襟。カナは交互に引っぱって、どっちも隠しきれないまま、最後は毛布を頭までかぶった。
毛布の中から、くぐもった声がした。
「……小さいって、思ったでしょ」
「思ってねえ」
「嘘。三秒、止まった」
それから、もっと小さな声で。
「……でも、大人だから。わかった?」
「……わかった」
本当に、わかってしまったのが問題だった。
毛布の塊が、ずるずると床板のすきまへ移動して、消えた。
俺の毛布ごと。
床下から、缶を開ける音がした。
続いて、いつもより、だいぶ早口な声。
「今のは、寝ぼけてた。記録しないで。全部忘れて。忘れないなら、私が忘れさせる。缶で」
「物騒だな。あと毛布返せ」
「記録しました」
エルザが言った。
「記録すんなって言ってるだろ!」
「では、私も第一段階から始めます」
エルザが、毛布のなくなった俺の隣に、すとんと横になった。
きっちり、こぶし一つぶん離れて。
「『隣接』です」
「始めんな!」
「わたくしも、隣接いたしますわ!」
天井の穴から、ミヤビの声と、枕だけが落ちてきた。
「……今、まいりますわ。今。……は、はしごが、ございませんわーーっ!」
☆☆☆
昼前、シズカが来た。
灰色の上着を、胸に抱えていた。
おとといの夜、俺が肩にかけてやったやつだ。
「……返しに来た」
シズカは、俺と目が合ったとたん、耳の先まで桃色になった。
おとといのことを、まだ、全部、覚えている顔だった。
「洗った。……三回」
「三回?」
「一回目で、君のにおいが落ちなかったから」
「おい」
「二回目で、僕のにおいが移ってないか、心配になったから」
「おい」
「三回目は――」
シズカは、上着を俺の胸に押しつけて、くるりと背を向けた。
「三回目は、解析しない!」
上着から、石けんの匂いと、ほんの少しだけ、知らない花みたいな匂いがした。
「……移ってるぞ」
「移ってない! データ上は、移ってない!」
「あ、そうだ」
俺は、上着を受け取りながら言った。
「おまえ、こないだ消された言葉。――社会の窓、だよ」
言った瞬間、自分の手が勝手にジャージの前へ行った。閉まってる。よし。
シズカが、振り返った。
「……え?」
「社会の窓。おまえが叫んだやつ」
シズカは、俺の口もとを、じっと見ていた。
聞こえている。顔を見ればわかる。でも。
「……ごめん。もう一回」
「社会の、窓」
「……うん。聞こえた。今、聞こえたんだ」
シズカは、自分の耳に、そっと指を当てた。
「でも、残らない。水を手ですくうみたいに、指のあいだから、こぼれていく」
シズカは、笑おうとして、うまくいかなかった。
「恥ずかしかったことは、全部、覚えてるのに。……一番恥ずかしかった言葉だけ、もう、持てないんだ」
最後までお読みいただきありがとうございました。
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