社会の窓【後半】
「……今の、君の、腰の、まんなかの」
シズカの声が、少しずつ、上ずっていった。
「縦に、十五センチの……奥に、金の、刺繍の……」
「それ、さっきエルザも言ってた」
「わかってる! わかってるから、黙って!」
シズカが、叫んだ。
シズカが叫ぶのを、俺は、初めて聞いた。
「お、落ち着け。感情ゼロなんだろ」
「ゼロだよ! ゼロにしてる! ゼロに……」
シズカは、ぎゅっと目をつぶって、両手で自分の頬を、ぱしん、と叩いた。
「……解析対象。灰村瓊心。所見。下衣前部、開口部。開放状態。開放幅、最大。開放時間――」
シズカの目が、ぱっと開いた。
「――朝から、ずっとじゃないか!! なんで誰も言わないんだよ!! なんで君は気づかないんだよ!! なんで僕が最後の一語でこんなことしなきゃいけないんだよ!! しかも刺繍、ちょっとかわいいんだよ!!」
「最後のいらねえだろ!」
「社会の窓が、全開なんだよ、君はあぁぁっ!!」
水色の文字が、シズカの口から、勢いよく飛び出した。
『社会の窓』
しゃっ。
俺の腰で、最後の、いちばん大きな音がした。
☆☆☆
『警告。解析スーツ、感情値の上限を超過』
『研究用発話許可、適用外。……本人の感情を、確認しました』
シズカのスーツの縫い目に、ちかちかと、水色の光が走りはじめた。
「ガキども、こっちだ!」
ラジ爺が、すばやく外套を広げて、ガキどもの頭にばさりとかぶせた。
そのまま、まとめて床下の入り口へ押しこむ。
床下で、カナが「定員」と言ったが、誰も聞いていなかった。
ほどけた。
襟から、肩から、袖から。
白と灰色の布が、一枚ずつ、光る文字の粒になって、天井へ舞い上がっていく。
上着が溶けた。
スラックスが、ひざの上まで、さらさらとほどけていく。
残ったのは、水色の下着だけだった。
飾り気のない、スポーツタイプ。いかにも、動きやすさだけで選びました、という形。
なのに。
細くて、薄くて、いつも端末を抱えていた体は、思っていたより、ずっと、ちゃんと、女の人の線をしていた。
小さな肩。浮いた鎖骨。
きゅっと締まった腰から、白い太ももへ、なめらかに続く曲線。
スーツの下に、こんなものが隠れていたなんて、誰も解析していなかった。
シズカは、自分の体を見下ろした。
それから、反射で、端末を自分に向けた。
「……か、解析する。自分を。そうすれば、落ち着く。……着衣率、九パーセント。露出面積――」
読み上げた数字で、自分にとどめを刺した。
いつもの、何を聞いても眉ひとつ動かさない顔が――。
ぐしゃっと、崩れた。
「み……見ないで、くれるかな……っ」
声が、裏返っていた。
耳まで、首まで、肩まで、桃色に染まっていく。
泣きそうで、怒りそうで、笑いそうで、その全部を、どうしていいかわからない顔。
――ああ、だめだ。その顔は、反則だ。
解析しかしてこなかったやつが、自分が解析される側になった瞬間の顔だ。
俺は、そういう顔が、本当に、どうしようもなく、好きなんだ。
「見てねえ!」
俺は、全力で目をそらした。
そらす直前に、全部、目に焼きついていた。
「し、心拍、百四十二……体温、三十八度……瞳孔、拡大……これは、解析、できない……解析できないよ、こんなの……っ」
シズカは、端末で胸もとを隠しながら、その場にしゃがみこんだ。
端末の画面が、ぴこぴこと、自分の心拍数を表示し続けていた。
俺は、上着を脱いで、シズカの肩にばさりとかけた。
ミヤビが仕立ててくれた、灰色の上着。胸に金の『瓊』。
「……わたくしの仕立てを。でも、正しい使い方ですわ。許してさしあげます」
天井の穴から、ミヤビが言った。
エルザが、棚から予備のジャージを引っぱり出して、シズカの腰に巻きつけた。
それから、俺のほうを向いた。
「灰村瓊心。今、見ましたね」
「見てねえ」
「瞳孔の開き方が、見た人のものです」
「見てた。七秒」
床下から、カナが言った。
「三秒、五秒、七秒。順調に、伸びてる」
「伸ばしてねえ!!」
「この……スケベッ!!」
エルザの口から、ついに、未遂じゃない声が出た。
☆☆☆
「――おかしい」
上着にくるまったまま、シズカが顔を上げた。
まだ、耳が赤かった。
でも、目は、もう、解析の目に戻っていた。
「本気の廃語を、人前で叫んだ。なのに、粛清の光が、落ちてこない」
「……三校が、現場にいるときは、光は落ちない」
エルザが、低く言った。
全員の目が、ゆっくりと、店の隅に向いた。
黒い服の女が、立ち上がっていた。
空になったお湯の缶を、きちんと卓の真ん中に置いて。
代金の小銭を、その横に、一枚ずつ、きっちり並べて。
女は、俺の前まで歩いてきた。足音が、しなかった。そして、何の色もない声で、言った。
「灰村瓊心。下衣前部開口部が、開放状態です。内部に、刺繍を確認しました」
路地が、しんと静まりかえった。
朝から、誰ひとり、言えなかった言葉だった。
それを、この女は、天気でも読み上げるみたいに、言った。
俺は、下を見た。見た。
「……おわああああっ!?」
銀色のファスナーを、全力で引き上げた。
女は、俺のほうを、もう見ていなかった。
足もとに落ちていた、水色の結晶を見下ろしていた。
シズカが叫んだ、『社会の窓』の結晶だ。
女は、その上に、そっと指先をかざした。
「念のため」
結晶が、墨を一滴垂らした水みたいに、黒くにじんで、消えた。跡形もなく。
「墨染シノブ。念校です。本日は、着任のご挨拶です。……お湯、ごちそうさまでした」
それだけ言って、シノブは、路地の向こうへ歩いていった。
誰も、止められなかった。
エルザの手の中で、申請書が、ぴこん、と鳴った。
『指摘申請書(品位条項関連)――受理されました』
「……今かよ」
「備考欄の『察してください』が、初めて、通りました」
「誰が察したんだよ」
「上の、誰かです」
「灰村瓊心。申請が通りましたので、正式に、指摘します。朝から、開いていました」
「それを朝に言え!!」
☆☆☆
その夜。
屋根の上に、シズカがいた。
俺の上着にくるまって、ひざを抱えて、端末も開かずに、星を見ていた。
「……ねえ、灰村くん。僕、昼間、何て叫んだんだっけ」
俺は、隣に座った。
「君のファスナーのこと。何か、言葉で言った。叫んだ。それは、覚えてる。恥ずかしかったことも、全部、覚えてる。君が目をそらすのが、ちょっとだけ遅かったことも」
「……悪かったな」
「でも」
シズカは、自分の口もとに、指を当てた。
「その言葉だけが、出てこない。語源まで、知ってたはずなのに。ラジオの番組だったことも、裏側をのぞく番組だったことも、全部覚えてるのに、まんなかの言葉だけが、ない」
シズカの声が、少しだけ、震えた。
「解析担当が、自分の叫んだ言葉を、解析できないんだ。……こんなの、初めてだよ」
俺は、何か言おうとした。何を言っても、軽くなる気がした。
「ねえ。ひとつ、頼んでいいかな」
「何だ」
「君が、覚えてて。僕の代わりに。……僕が、どんな顔で、どんな声で、何を叫んだのか」
シズカは、上着の襟に、顔をうずめた。
「恥ずかしかったけど。あれ、たぶん、僕が生まれて初めて、本気で言った言葉だったから」
「……ああ。覚えてる。一生、忘れねえ」
「一生は、ちょっと、困る」
シズカは、ほんの少しだけ、笑った。
屋根の下で、カナの声がした。
「消えた。……結晶ごと。言った人の中からも」
屋根裏で、猫が、一回だけ鳴いた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
よろしければ、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




