社会の窓【中盤】
エルザは、湯沸かしを置いた。
まわれ右をして、棚から、一枚の紙を取り出した。
『指摘申請書(品位条項関連)』
「治安官服務規程、品位条項第八条。他者の下衣に関する事項を口頭で指摘する場合は、事前に申請し、受理を待たなければなりません」
「……受理まで、何日」
「標準で、三営業日です。本日は、休日扱いですので、四営業日です」
「何の話か知らねえけど、遅すぎるだろ」
エルザは、すごい速さで申請書を書きはじめた。
のぞきこむと、欄がいくつも並んでいた。
『指摘対象者:灰村○心』
「丸で書くな。上着の胸に、毎日見てるだろ」
「見ています。でも、私の文字盤にありません。……本日、見た場所も、書けません」
『指摘対象部位:』
そこで、ペンが止まっていた。
三回、書きかけて、三回とも、塗りつぶした。
「……部位の名称が、閲覧制限語です。備考欄に、『察してください』と書きます」
「通るのか、それ」
「通ったことは、ありません」
婆さん二人が、俺のほうを見て、そろって湯のみを置いた。
「まあ」
「まあまあ。……若いって、いいわねえ」
片方が、干物を一枚、俺の手に握らせた。
「お大事にね」
「……何を?」
婆さんたちは、答えずに、そそくさと帰っていった。
縁台のラジ爺が、肩を震わせて、地面に指で何か書いては、あわてて消していた。
路地の向こうから、タクトが、板きれを掲げて走ってきた。
『ケイシン まど あいてる』
「お、ほんとだ。ありがとな」
俺は、店の窓を、ぱたんと閉めた。タクトが、板を持ったまま、首をかしげた。
☆☆☆
ミヤビが、屋根裏から下りてきた。
「灰村さん、ズボンの、はき心地はいかがかし――」
はしごの途中で、止まった。
ミヤビの目が、俺の腰のあたりで、止まった。
顔が、さあっと青くなって、それから、ゆっくり赤くなった。
「……わ、わたくしの、仕立てが……いえ、なんでもありませんわ。元綺羅星の仕立てに、不備など、ございませんもの。ただ、その……灰村さん。殿方の、お城の……」
「城?」
「お城の、大手門が……いえ、裏門……いえ、搦め手……奥に、わたくしの刺繍した、天守閣が……」
「さっきから何の話だよ。城攻めか」
「攻められておりますのは、灰村さんのほうですわーっ!」
ミヤビは、屋根裏へ逃げ帰った。
天井板が、ばたんと閉まった。
「灰村瓊心」
エルザが、申請書を胸に抱えて、俺の前に立った。
「口頭での指摘は、できません。ですが、身振りでの指摘は、規程に書いてありません」
エルザは、まっすぐ俺の目を見たまま、右手の人差し指を、そっと持ち上げた。
指先が、ゆっくり、ゆっくりと、下へ降りていく。
胸。腹。へそ。そこで止まって、ぷるぷる震えた。
「現在、私は、あなたの下半身の一点を、注視しています」
「言い方!」
「訂正します。一点ではなく、一直線です。縦に、約十五センチ」
「具体的にすんな!!」
エルザの耳が、みるみる赤くなった。
「……こ、この……」
言いかけて、自分の口を両手でふさいだ。
「今のは、未遂です。記録しないでください」
床板が、五センチ持ち上がった。
「カナ。おまえ、何か知ってるだろ」
「知ってる。でも、私は、言わない派」
「派閥があんのか」
「言わない派、私。言いたいけど言えない派、ふたり。言うと面白くなくなる派、私」
「同じやつが二回出てきたぞ」
「兼任」
☆☆☆
「――興味深い」
シズカが、いつのまにか、俺の前にしゃがみこんでいた。
目線が、ちょうど、俺の腰の高さだった。
「うおっ!?」
「動かないで。今、解析中だから」
シズカは、端末を俺の腰に向けた。
顔が、近い。息が、ズボンの生地ごしにかかる距離だった。
「やっぱり。そのファスナー、ロゴス製だ。型番LG-08、音声認識式の『開示』機構つき。上層区の、式典用の礼服についてる部品だよ。周囲で廃語を検知すると、自動で『開いて』知らせるんだ」
「何を開くんだよ」
シズカは、答えなかった。
かわりに、すっと立ち上がって、エルザとミヤビを手招きした。
ミヤビが、天井から、さかさまに顔だけ出した。
今度は、すそをひもでしばってあった。
三人は、店の隅で、肩を寄せあって、ひそひそと話しはじめた。
「……やはり、そうでしたか」
「わたくし、いちばんぴかぴかなのを選びましたのに……」
「ぴかぴかなのは、ロゴス製だからだよ」
「おい。なんで俺だけ、仲間はずれなんだ」
三人が、いっせいに振り向いた。三人とも、俺の顔より、だいぶ下を見ていた。
そして、三人とも、同時に、目をそらした。
隅の席の黒い服の女だけが、まっすぐ、俺の顔を見ていた。
☆☆☆
「僕が、言う」
ひそひそ会議の結論は、それだった。
「僕には、研究用の発話許可がある。解析目的なら、一日十語まで、廃語を口にしても減点されない。感情を乗せなければ、ね」
「おう。知ってる」
「今日は、もう九語、使った。朝、ルビの掲示板の解析で、四語。それと、ファスナーの反応を確かめるのに、五語」
シズカは、なぜか、目をそらした。
「……五回とも、ちゃんと、反応した。ちゃんと、見た。五回とも」
「何を」
「残りは、一語。この一語を、感情ゼロで、正確に、君に伝える。それだけで、全部、解決する」
シズカは、深呼吸をした。
いつもの、解析のときの顔だった。
どんな言葉を聞いても、眉ひとつ動かさずに「語源は?」と聞く、あの顔。
「まず、前提から説明する。その言葉の語源は、大校正よりずっと前、昭和二十年代のラジオ番組だと言われてる。世の中の、ふだん見えない裏側を、こっそりのぞいて伝える番組だった」
「ふうん」
「そこから転じて、ふだんは閉じていて、開いていると中がのぞけてしまう場所のことを、そう呼ぶようになった。……つまり、今の君の」
シズカの視線が、すうっと、下へ降りた。
そして、止まった。
金の『瓊』の上で。
「…………今の、君の」
シズカの耳の先が、ほんのりと、桃色になった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
よろしければ、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




