社会の窓【前半】
社会の窓【前半】
「灰村さん。おはようございますわ」
天井板が、がたんと外れた。
屋根裏から、ミヤビが、さかさまにぶら下がっていた。
はりに両足をひっかけて、こうもりみたいに。
髪にほこりと、なぜか猫の毛がついている。
「……おはよう。寝れたか」
「ぐっすりですわ。夜中に猫が三匹、わたくしのお布団で会議をしておりましたけれど。議題は、わたくしの枕の所有権。……二対一で、負けましたの」
「それより、おまえ」
「はい?」
「スカート」
さかさまだった。
さかさまなので、ワンピースのすそは、重力に従って、ミヤビの顔のほうへ、まるごと、ずり落ちていた。
すその向こうに、白い太もも。
その先に、桃色の、フリルのついた下着。
まんなかに、金糸で、小さく『綺羅星』。
ミヤビは、自分の顔にかぶさった布を、両手でそっとどけた。
どけて、自分の体を、さかさまのまま見上げた。
「…………」
一秒。
「――きゃあああああああですわーーっ!!」
ミヤビは、はりから手を放した。足は、放さなかった。
さかさまのまま、ぶらんぶらんと振り子のように揺れながら、すそを押さえようとして、押さえる方向がわからなくなっていた。
「布! 布をくださいまし! いえ、布はわたくしが着ておりますわ! 着ておりますのに、隠れておりませんわーっ!」
「まず、上がれ!」
「上がれませんわ! 腹筋が、標準以下ですの!」
「標準的な腹筋の値は――」
「エルザ、今それいらねえ!」
ミヤビは、天井の穴の向こうへ、猫たちに引っぱられるみたいにして、ずるずると消えた。
しばらくして、穴から、真っ赤な顔だけが、そろりとのぞいた。
「……灰村さん。今の角度は」
「見てねえ」
「金糸の刺繍まで、ご覧になりましたわね。……でしたら、本日を、『灰村さんに綺羅星を見られた日』として」
「記念日にすんな」
☆☆☆
ミヤビが、はしごで、ちゃんと下りてきた。
背中に隠していたものを、ばっと広げる。
灰色のズボンだった。
「上着だけでは、片手落ちですもの。ゆうべ、カーテンの残りと、ゴミ山の作業着をほどいて、仕立てましたわ。……それと、こちらも」
もう一枚、出てきた。
灰色の、男物の下着だった。すそに、金の糸で、ちいさく『瓊』。
「なんで下着まで縫ってんだよ!」
「一着の服は、下着から始まりますの。仕立て屋の常識ですわ」
ズボンの前には、銀色に光るファスナーがついていた。
下層区では見たことがないくらい、ぴかぴかだ。
「これ、どこで」
「ゴミ山の、上層区のごみの山からですわ。いちばん上等なのを選びましたの。歯の一本一本まで、ぴかぴかでしょう?」
はいてみると、腰まわりがぴったりだった。上着と並べると、上から下まで、ちゃんと一着の服に見える。
「灰村瓊心」
床の上で毛布をたたんでいたエルザが、すっと立ち上がった。
「似合っています。記録します。本日の灰村瓊心は、上下そろっています」
「当たり前のことを記録すんな」
「当たり前ではありません。昨日までは、上しか、そろっていませんでした」
床板が、五センチ持ち上がった。
「下は、ジャージ。三か月。洗ってない」
「洗ってるわ!」
「週一」
「……週一は、洗ってるって言うんだよ」
☆☆☆
昼前、シズカが屋根から降りてきた。
「ルビから。掲示板」
『ねんこう きた
でも だれも かお しらない
くろい ふく
しずか
それだけ』
「三校の最上位なのに、記録がほとんどない。顔写真もない。……僕の解析網にも、引っかからない」
その日も、店は開けた。
客は、近所の婆さんが二人と、ガキどもが五人と、縁台で日なたぼっこをしているラジ爺と、それから、隅の席に、見ない顔の女がひとり。
地味な黒い上着。
黒い髪を、うしろでひとつにまとめている。
年は、二十代の半ばくらい。
注文は、エルザの「標準的なお湯」を一杯だけ。
女は、それを両手で包んだまま、窓の外をじっと見ていた。
ひとことも、しゃべらなかった。
「……静かな客だな」
「標準的なお客様です」
「標準的な客は、お湯一杯で、半日も座らねえよ」
「では、標準的ではないお客様です。記録します」
☆☆☆
店の前の路地では、ガキどもが、板きれと炭を持って待ちかまえていた。
俺が言って、あいつらが書く。
いつもの、死語の書き取りだ。
「いいか。今日のは、これだ。――バッチグーッ」
しゃっ。
腰のあたりで、小さな音がした。
気のせいだと思った。
『バッチグー』
タクトが、板に、大きく書いた。
「よし。次。――イケイケッ」
しゃっ。
「――ルンルンッ」
しゃっ。
三回目の「しゃっ」のとき、エルザが、湯沸かしを持ったまま、ぴたりと止まった。
エルザの目が、俺の顔を見て、それから、すうっと、下へ降りた。
腰のあたりで、止まった。
開いた銀色のすきまの奥で、金の糸が、ちかりと光っていた。
『瓊』
エルザの顔から、表情が、きれいに消えた。
「……エルザ?」
「なんでも、ありません。訂正します。なんでも、あります。でも、申し上げられません」
「どっちだよ」
「ただ、ひとつだけ、報告します。……上着の胸と、同じ字が、見えます。思っていなかった場所に」
「どこに!?」
エルザは、答えなかった。
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