グロッキー【後半】
「まだ、ですわ……」
ユキノは、日傘を地面について、体を支えた。
十二枚重ねの襟もとが、汗でしっとりと色を濃くしている。
それでも、背筋だけは伸ばしたままだった。
「まだ、お仕事が、残っておりますもの」
「ユキノさん。最後のひとつは、わたくしが、自分で申し上げますわ」
ミヤビが、一歩、前に出た。
「おい、ミヤビ」
俺は、ミヤビの腕をつかんだ。
「おまえが本気で死語を叫んだら、ゼロになる。校正だぞ」
「存じておりますわ」
ミヤビは、俺の手に、そっと自分の手を重ねた。
指先に、針だこがあった。
ゆうべ、俺の上着を縫った指だ。
「でも、灰村さんに読んでさしあげたのは、おばあさまの言葉ですもの。わたくしの言葉は、まだ、ひとつも、言っておりませんわ」
床下から、カナの声がした。
「……一回だけ。一回だけなら、消せる。誤検知に、書き換えられる。今日の分」
「カナ、おまえ、この前も――」
「二回目。たぶん、そろそろ、本当に、まずい。……でも、いい」
ミヤビは、床下に向かって、深く頭を下げた。
それから、ユキノのほうを向いた。大きく、息を吸った。
上層区の令嬢の立ち方じゃなかった。
路地の真ん中で、泥のついたワンピースのまま、両足を踏んばって立つ、下層区の女の立ち方だった。
そのとき、路地の端で、ラジ爺が血相を変えた。
地面に、ものすごい速さで書く。
『モーレツ くる かぜ くる スカート』
「……スカート?」
ラジ爺は、ガキどもを、片っぱしから床下の穴へ放りこみはじめた。
最後に、穴のふたを自分の尻でふさいで、地面に一行。
『こども ぜんいん ゆかした。 むかしの CM しってる』
何を知ってるんだ、爺さん。
「わたくしは、綺羅星の三女では、もう、ありません」
ミヤビの声が、路地に響いた。
「でも、おばあさまの孫で、灰村さんの仕立て屋で、この路地の住人ですわ。……それだけは、誰にも、なかったことには、させませんわ!」
両手を、空に突き上げる。
「――モーレツ、ですわーーーッ!!」
金色の文字が、ミヤビの口から、嵐みたいに吹き出した。
ユキノの指が、震えながら、動いた。
『差し替えます――「猛烈」』
光が、走った。
金色の文字が、ゆらりと揺れた。
揺れて――何も、変わらなかった。
『モーレツ』は、『猛烈』になっても、モーレツのままだった。読み方も、意味も、気持ちも。いちばん近い言葉が、ほとんど同じ言葉だった。
「……あら。言い換えても……同じ、ですわね」
猛烈な風が、路地を吹き抜けた。
下から、上へ。
ミヤビのワンピースの裾が、ぶわっと、胸もとまでめくれ上がった。
白い太もも。くびれた腰。
その真ん中を包んでいたのは、上層区の絹でもレースでもない、生成りの、木綿の、飾りのない下着だった。
下層区の市場で、三枚いくらで売っているやつだ。
「……………………」
ミヤビは、両手を空に突き上げたまま、固まっていた。
風が、ぴたりとやんだ。
裾が、ふわりと元に戻った。
「――――きゃああああああああああですわーーーーーっ!!」
本日二回目の悲鳴は、一回目より、長かった。
「み、見ましたわね!? 今、見ましたわよね!?」
「見てねえ!」
「見てた。……今のは、数えない。風のせいだから」
床下の穴のふたの下から、カナの声がした。ラジ爺の尻ごしだった。
ミヤビは、真っ赤な顔で、俺の上着のすそをつかんで、顔をうずめた。
「よりによって……よりによって、今日の、木綿の、下層区の……」
くぐもった声が、少しだけ、震えた。
「……でも、これが、今のわたくしですもの。……見られても、恥ずかしいだけで、後悔は、いたしませんわ」
「十分恥ずかしがってるけどな」
「お黙りになって! ……責任は、あとで、きっちり取っていただきますわ」
「風に取らせろ」
猛烈な風の、最後のひと吹きが、ユキノの手から、日傘をもぎ取った。
定着の光を走らせたまま、白い日傘は、くるくると回りながら、上層区の空のほうへ、どこまでも、飛んでいった。
☆☆☆
ユキノは、路地の真ん中に、ぺたんと座りこんでいた。
十二枚重ねは、一枚もほどけていなかった。
ただ、汗で髪が頬に張りつき、肩で息をしている。
いつもの、何があっても崩れない顔が、ぐったりと、くたびれていた。
「……グロッキーだな、あんた」
「ええ。……グロ」
言いかけて、口を押さえる。
少しだけ考えて、言い直した。
「疲労困憊、ですわ。……三校が、二日続けて死語を口にするわけには、まいりませんもの。……でも、ほんとうは、元の言葉のほうが、ぴったりですのに」
ユキノは、ゆっくり立ち上がって、スーツの裾をはらった。
「本日の回収は、失敗いたしました。上には、そう申し上げます」
それから、ミヤビに向かって、深く頭を下げた。
「ミヤビさん。……お姉さまがたにお伝えしたこと。お仕事でしたけれど、謝りますわ」
ミヤビは、少し考えてから、言った。
「許してさしあげますわ。……おばあさま風に、申し上げるなら」
にっこり笑う。
言葉は、口には出さなかった。
かわりに、俺の上着の、心臓のあたりを、指でとんとんと叩いた。
ユキノは、困ったように笑った。
「次は、わたしではない方が、参りますわ。三校のいちばん上。念校の方が。……あの方は、わたしたちと、ちがいます。お気をつけて」
☆☆☆
その夜。ミヤビの寝床を、どうするかで、もめた。
「床の上は、私と、灰村瓊心で、定員です」
「床下は、私の席」
「わたくし、どこでもかまいませんわ。軒下でも」
「軒下は雨が漏る。……上が、空いてる」
カナが、天井を指さした。
天井板の一枚が、少しだけずれていた。
その奥に、低い屋根裏がある。
ゴミ山で拾った梁と、ほこりと、たまに猫。
ミヤビは、はしごを上って、天井の穴から首を突っこんだ。しばらく、静かだった。
「……ひろいですわ。天井が、低くて、ほこりっぽくて、星が、すきまから見えますわ」
ミヤビの顔が、天井の穴から、さかさまにのぞいた。巻き髪が、ぶらんと垂れた。
「わたくし、ここに、住みますわ」
「上、中、下」
エルザが、天井と、床と、床板を順番に指さした。
「標準的な、三層構造です」
「再校の重ね着みたいに言うな」
その夜のうちに、ミヤビは、屋根裏に、最後の端切れで小さなカーテンを縫いつけた。
シズヱさんの桃色の結晶が、梁にぶら下げられて、すきま風に、ゆらゆら揺れていた。
明かりを消すと、家じゅうが、真っ暗になった。
「……おやすみなさいませ」
天井の上から、声がした。
「おやすみ」
床の下から、声がした。
「おやすみなさい、灰村瓊心」
隣の毛布から、声がした。
上と、下と、隣。
三方向から、おやすみが届く家。
俺は、真ん中で、天井の暗がりを見上げた。
「……ああ。おやすみ」
天井の上から、もう一度、小さな声が降ってきた。
「灰村さん。……今日の昼のことは、記念日には、いたしませんわ」
少し間があった。
「……ここに住みはじめた日、のほうを、記念日にいたしますの」
床下で、カナが、小さく言った。
「二回目。……たぶん、もうすぐ、来る」
誰が、とは言わなかった。
俺も、聞かなかった。
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