グロッキー【中盤】
「――チョベリバッ!!」
『とても、悪い』
「超MMッ!」
『とても、無理』
「ムカ着火ファイヤーッ!」
『激しい怒り』
「シャレオツッ!」
『おしゃれ』
「アウトオブ眼中ッ!」
『眼中にない』
十分もたたないうちに、地面は、灰色の字でいっぱいになった。
ユキノは、日傘を肩にかけたまま、指を振るだけだった。
湿気のない、乾いた日だった。
「辞書は、いちばん内側に移しましたの。……今日は、はがれませんわよ」
路地の端では、ガキどもが、板きれを掲げていた。
『がんばれ』
『まけるな』
『ケイシン かっこいい』
声を出せば、あいつらのスコアが飛ぶ。
だから、書く。
タクトが、いちばん大きな板を、両手で振っていた。
『ユキノねえちゃんも むり すんな』
「……あら。敵にまで、応援ですの。困りますわ。……照れてしまいますもの」
ユキノは、扇ぐみたいに、指をひらひらさせた。
その指で、また俺の字を、ひとつ、灰色にした。
「エルザ。なんか、言える言葉、ねえか」
「私の語彙は、すべて、標準語です」
エルザは、まじめな顔で、胸に手を当てた。
「ただし、応援の意思は、あります。……灰村瓊心、がんばってください。標準的に」
「標準的に応援すんな」
「では、全力で」
エルザは、ガキどもの板を一枚借りて、地面に石で何か書いた。
『けいしん がんばれ (ひょうじゅんてきに ではなく)』
「注釈をつけるな!」
屋根の上で、シズカが小さく噴きだした。
ユキノまで、口もとを押さえている。
……緊張感って、どこに置いてきたんだっけな、この路地。
「チョメチョメッ!」
『――指定済み。「秘密」に、固定します』
ピンクの字が、灰色の『秘密』に変わって、落ちた。
「……っ、対策済みかよ」
「同じ手で、二度は負けられませんもの。ゆうべ、徹夜で、組み直しましたの。十二枚、ぜんぶ」
「……一人でか」
「ええ。わたし、お裁縫は、苦手ですけれど」
ミヤビが、ぴくりと眉を上げた。仕立て屋の顔だった。
「……左の脇の縫い目、三針、曲がっておりますわ」
「見ないでくださいまし!」
ユキノが、日傘で脇を隠した。
三校が、仕立て屋に負けていた。
俺は、息を吸った。腹の底を、探った。
在庫が、ない。
今日まだ使っていない言葉が、もう、ひとつも残っていなかった。
キタコレは、既読で半分死んでいる。
ギャフンも、ワロタも、使った。俺が知っている死語は、全部、結晶の残響で覚えたものだ。
この街に降ってきた分しか、俺は知らない。
「……品切れ、ですの?」
ユキノが、首をかしげた。額に、うっすらと汗がにじんでいた。
「お待ちになって」
ミヤビが、俺の横に並んだ。
「灰村さん。……わたくしの言葉を、使ってくださいまし。おばあさまの日記。燃やされましたけれど、全部、ここに入っていますの。一字一句、ぜんぶ」
ミヤビは、自分のこめかみを、指でとんとん叩いた。
「でも、俺、その言葉の気持ちを知らねえ。結晶もない」
「わたくしが、おばあさまの声で、読んでさしあげますわ。死語のところは、地面に書きますの。ラジさんや、タクトくんたちと、同じですわ。気持ちは、声で。……灰村さんが、つないでくださいまし」
☆☆☆
ミヤビは、目を閉じた。
「昭和、四十年。五月三日。晴れ」
声が、少し変わった。
保管所で聞いた、あの澄んだ声に、どこか似ていた。
「『あの人と、初めての遊園地。観覧車のてっぺんで、手をつないだ。今日のわたしは、とびきり――』」
ミヤビの枝が、地面に、すらすらと字を書いた。『ハッスル』
腹の底に、何かが、ぽっと灯った。
見たこともない遊園地。
会ったこともない若いころのシズヱさん。
てっぺんで、うれしくて、たまらなくて――。
「――ハッスルッ!!」
オレンジ色の字が、口から飛び出した。初めて口にする言葉だった。
それでも、ちゃんと、出た。
ユキノの指が、動く。『張り切る』
灰色に変わって、落ちる。でも、ユキノの指先が、さっきより、少しだけ遅かった。
「昭和、五十八年。十月。くもり。『ミヤビの母が生まれた。小さな手。わたしの指を、ぎゅっと握った。この子の未来は、きっと、――』」
枝が、走る。『バッチグー』
「――バッチグーッ!!」
『最高』
「『若い人たちに混じって、ディスコに行った。夫は――で、踊っていた』」
『ルンルン』
「ルンルンッ!!」
『上機嫌』
「『孫が生まれた。三番目の女の子。わたしに似て、刺繍が好きになるといい。――お嬢さんになりますように』」
枝の先が、少しだけ、ぶれた。『イカす』
ミヤビの声が、少しだけ、震えた。
「――イカすッ!!」
『格好いい』
灰色の字が、ぱらぱらと落ち続ける。
でも、ユキノの額の汗は、もう、首筋まで伝っていた。
「……おかしいですわ。古い言葉ほど、辞書の奥にありますの。奥の言葉を引くたびに、スーツの中の熱が、上がって……」
重なった布の、いちばん外側から、ふうっと白い湯気が立った。
「湿気じゃなくて、熱、か」
シズカが、屋根の上で目を見開いた。
「外側の層が、断熱材になってる。辞書を内側に移したせいで、引けば引くほど、中にこもるんだ」
「……あつい、ですわ」
ユキノは、片手で、襟もとをゆるめた。
路地の端で、ラジ爺が、すっと立ち上がった。
ガキどもの肩を、一人ずつつかんで、くるりと後ろを向かせる。
地面に一行。
『こども うしろむき』
一枚目の襟の、留め具を外す。二枚目。三枚目。
十二枚重ねなので、襟が、十二枚あった。
「……四枚目。五枚目」
「数えながら外すな!」
六枚目の襟がひらいたところで、白い喉もとと、鎖骨のくぼみが、湯気の向こうに、ちらりとのぞいた。
汗が、そのくぼみに、すうっと流れこんでいく。
――いい。崩れないはずの顔が、暑さで、とろんとしてる。
「灰村瓊心」
エルザが、俺の視界に、すっと体をねじこんだ。
「現在の戦況に、鎖骨は、関係ありません」
「見てねえよ」
「瞳孔が、鎖骨の位置で、止まっていました」
ミヤビが、枝の先で、地面に小さく書いた。
『グロッキー』
「……ですわね」
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