グロッキー【前半】
「回収、って、どういう意味ですの」
朝、ミヤビは、毛布をかぶったまま言った。
床の上で、ひと晩、針山を握ったまま眠っていた。
目の下に、うっすらとクマができている。
「上に連れ戻して、再審査。スコアがゼロなら、その場で校正」
床板が、五センチ持ち上がった。
カナだった。
いつもより、声が低かった。
「二百八十八点は、ゼロじゃない。でも、死語を一回、本気で叫べば、たぶん、届く」
「……届く、とは」
「ゼロに」
ミヤビは、毛布の端を、ぎゅっと握った。
「では、わたくしは、もう、モーレツも、言えませんのね」
誰も、答えなかった。
エルザが、空き缶にお湯を注いで、ミヤビの前に置いた。干し芋を一枚、そっと缶の横に添える。
「下層区の標準的な、朝食です。本日は、干し芋がつきます」
「……それ、私の、非常用」
床下から、低い声がした。
「本日は、非常時と判断しました」
「判断するのは、私」
床板のすきまから、細い指が出てきて、干し芋の端をつまんだ。
引っぱる。エルザも、反対側をつまんだまま離さない。
干し芋が、まんなかで、ぷつんと切れた。
「……半分、です」
「半分」
二人は、同時に言って、同時に黙った。ミヤビが、こらえきれずに、肩をふるわせた。
「お二人とも、仲がよろしいのね」
「よくない」
「標準的です」
声が、また重なった。
☆☆☆
「灰村さん。袖を通してくださいまし。最後のひと針が、残っておりますの」
朝飯のあと、ミヤビが、灰色の上着を広げた。ゆうべ、夜なべで仕上げてくれたやつだ。
胸の金の『瓊』が、朝日を受けて、ちかりと光る。
袖を通すと、ミヤビが、針と糸を持って、俺の正面に立った。
「襟の裏を、留めますわ。動かないでくださいまし」
近い。
ミヤビは、つま先立ちになって、俺の首もとに顔を寄せた。
金色の巻き髪が、あごの下で、くすぐったく揺れる。針が、ちく、ちく、と襟を縫っていく。
膝の上で切りそろえられた生成りのワンピースは、背伸びをするたびに、裾がふわりと持ち上がった。
俺の上着の裏地に使った分だけ、丈が足りていない。
「……おい、裾」
「お黙りになって。今、いちばん大事なところですの」
最後のひと針を通すと、ミヤビは、俺の首すじに、唇を寄せた。
ぷつん。
糸切り歯で、糸を噛み切った音がした。
吐息が、首にかかった。
「……できましたわ」
ミヤビは、満足そうに顔を上げた。
上げて、自分の顔と、俺の首の距離を見た。
自分の唇が、たった今、どこにあったかを見た。
「――――きゃああああああああですわーーーっ!!」
路地じゅうに響く悲鳴だった。
「わ、わたくし、今、殿方の首に、く、く、口を……!」
「糸を切っただけだろ!」
「布を! 顔を隠す布をくださいまし!」
ミヤビは、家じゅうを走り回った。
棚をあける。箱をひっくり返す。毛布をめくる。
何も、なかった。
「……ありませんわ」
「おまえが全部、俺の上着に使ったんだよ」
ミヤビは、ぴたりと止まった。
俺の上着を見た。
自分の短くなった裾を見た。
それから、真っ赤な顔のまま、俺の上着のすそを両手でつかんで、そこに顔をうずめた。
「……では、これで隠れますわ。わたくしの仕立てですもの」
「着てる人ごと隠れるな!」
「灰村瓊心」
戸口で、エルザが言った。
「襟の縫い目の検査を、私が行います。標準的に」
「いらねえよ」
「念のため、首の位置から、同じ角度で」
「対抗すんな!」
床下で、缶をすする音が、いつもより長く続いた。
上着の肩の線は、ぴったり合っていた。
☆☆☆
昼前、シズカが屋根から降りてきた。
「ルビから。掲示板」
端末の画面に、いつもの、目隠しの字。
『ユキノさん きょう
ほんとは いきたくない って
でも いく
じしょ うちがわ に うつした
しっけ きかない』
「……辞書を、内側に」
エルザが、つぶやいた。
「湿気で外側がはがれても、差し替えは止まらない、ということです」
「チョメチョメは」
「たぶん、もう対策されてる。再校は、同じ手に二度負ける人じゃない」
シズカは、画面を、もう一度ひらいた。
『ミヤビさん にげて』
ミヤビは、その字を、長いこと見ていた。
それから、首を横に振った。
「逃げませんわ。どこへ逃げても、同じですもの。……でしたら、ここにいた、ということを、ちゃんと残して、それから捕まりますわ」
「捕まる前提で話すな」
「前提ではありませんわ。覚悟ですわ。前提は、あきらめた人のもの。覚悟は、まだ、あきらめていない人のものですの」
床下から、カナが、ぼそりと言った。
「……それ、ちょっと、かっこいい」
「でしょう?」
☆☆☆
白い日傘が、路地に入ってきたのは、昼過ぎだった。
「ごきげんよう、皆さま」
白妙ユキノ。
十二枚重ねのスーツは、また元どおりになっていた。
ただ、重なりの順番が、前とちがう。
外側の色が濃く、内側にいくほど淡い。
日傘の骨には、あの定着の光が、まだ走っていた。
「三女さん。……いえ、ミヤビさん。本日、あなたを、回収いたします」
「存じておりますわ」
ミヤビは、一歩、前に出た。
「お姉さまがたに、わたくしの下層区通いを、お伝えになったのは、あなたですの?」
ユキノは、日傘を、少しだけ下げた。
「……はい。それが、わたしの、お仕事ですもの」
「正直に、お答えくださって、ありがとうございます」
ミヤビは、怒らなかった。
ユキノの笑顔が、ほんの少しだけ、揺れた。
「……灰村さん。勝負をいたしましょう。わたしが負けたら、本日の回収は、失敗として、上に報告します」
「いいのか、それ」
「よくは、ありませんわ。でも、わたし、あなたに、二回も負けておりますもの。三回目は、ちゃんと、勝って連れて帰りたいの」
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