許してちょんまげ【後半】
保管所の門を出ると、エルザとカナのほかに、もう一人、待っていた。
ラジ爺だった。
いつもの、ぼろぼろのラジオを首から下げている。手のひらに、何か小さなものを握りしめていた。
爺さんは、地面にしゃがんで、指で書いた。
『きらぼし の おばあさん の こえ』
「……え?」
ミヤビが、立ち止まった。爺さんは、もう一行書いた。
『おれの ばんぐみ の はがきしょくにん』
「はがき、職人?」
「ラジオ番組に、毎週、はがきを送ってくる常連のことだ」
大校正より前。
まだ紙のはがきが使えて、ラジオが好きな言葉をしゃべれた時代。
爺さんは、三十代の、売れっ子のDJだった。
『らじおねーむ ちょんまげひめ』
『まいしゅう さいごに かいてた』
『ゆるして ちょんまげ』
ミヤビは、声も出せずに、爺さんの指先を見ていた。
『ろくねんまえ あめのひ ひろった』
爺さんは、握っていた手を、そっと開いた。
淡い桃色の、小さな結晶だった。
『すぐ わかった こえで』
『いつか だれか とりに くる と おもってた』
六年前。シズヱさんが校正された年。
七年前から、校正された人の言葉は、結晶になって下層区に降るようになった。その一粒を、爺さんは、声だけで聞き分けて、六年間、持っていた。
爺さんは、結晶を、ミヤビの手のひらに乗せた。
ミヤビは、震える手で、結晶を耳に当てた。目を閉じる。
俺たちにも聞こえるように、ラジ爺が、ミヤビの手を、少しだけ耳から離させた。
かすかな声がした。
さっき面会室で聞いたのと同じ、澄んだ、やわらかい声。
でも、そこには、三つ以外の言葉が、ちゃんとあった。
『あらあら。ばれちゃったわね』
くすくす笑う声。校正官に囲まれているはずなのに、楽しそうですらあった。
『いいのよ、連れていって。ひとつだけ、お願い。……三女のミヤビに、伝えてちょうだい』
声が、少しだけ、やさしくなった。
『わたしの日記、こっそり、ぜんぶ読んでくれて、ありがとう。あの子が笑うと、わたし、うれしかったの』
少しの間。
『でもね、きっと、あの日記のせいで、いつか、あの子も困るわね。……だから、先に、謝っておくわ』
それから、いたずらっぽい声で。
『許してちょんまげ』
それきり、何も聞こえなくなった。
ミヤビは、結晶を胸に押しつけて、地面に崩れ落ちた。
「……ずるい、ですわ」
しゃくりあげる声が、路地に響いた。
「おばあさま、ずるいですわ。……先に、謝ってしまわれたら。わたくし、誰に、怒ればいいのですか」
誰も、答えられなかった。
怒る相手は、いくらでもいた。
燃やした姉たち。
校正した治安局。ロゴス。この街。
でも、ミヤビが一番怒りたかった相手は、たぶん、六年間、何も知らずに空っぽの墓に花を供えていた、自分自身だった。
エルザが、ミヤビの背中に、そっと手を置いた。
その手が、かすかに、震えていた。
「……記録、します。綺羅星シズヱ。……最後の言葉を、記録します」
カナは、少し離れたところで、空を見上げていた。
缶コーヒーを、開けもせずに、握りしめていた。
☆☆☆
その夜。
泥だらけのワンピースは、カナが出してきたたらいで洗って、ランプの近くに干してあった。
ミヤビの着るものは、ほかに何もない。
だから、ミヤビは、俺の肌着を着ていた。
首のよれた、灰色の、穴が八つの肌着。
俺には少し小さいそれが、ミヤビには大きすぎて、裾が太ももの真ん中あたりまで落ちている。
「……灰村さん。ひとつ、よろしいかしら」
「なんだ」
「この肌着、穴が八つとも、わたくしの、ちがう場所に来ておりますの」
言われて、つい、見てしまった。
右の肩。左の脇腹。おへその横。背中の真ん中。太ももの外側。
それから、胸のふくらみの、すぐ横のところに、ひとつ。
やわらかな丸みの端が、穴のふちから、白く、ちらりとのぞいていた。
「――見てねえ!」
「見ましたわね!? 今、八つ全部、順番に見ましたわね!?」
ミヤビは、両腕で胸を抱えこんだ。
抱えこんだら、今度は背中の穴が、ぱっくり開いた。
「きゃあああああですわーーっ!! ぬ、布! 布をくださいまし! 何か、隠す布を!」
部屋の中を、肌着一枚で、ぐるぐる走り回る。
毛布はエルザが使っている。
外套は、泥だらけで、ワンピースと並んで干してある。
布は、どこにもなかった。
ミヤビは、ぴたりと止まった。
それから、刺繍の道具箱を、がばっと開けた。
「……でしたら、縫いますわ」
「は?」
「穴を、塞ぎますわ! 今、ここで!」
針に糸を通すのは、一瞬だった。
ミヤビは、自分が着ている肌着の、脇腹の穴を、内側からつまんで、ものすごい速さで縫いはじめた。
ちくちくちくちく。
「着たまま縫うなよ!」
「お裁縫は、わたくしの、唯一の取り柄ですもの! ――あっ、刺さりましたわ、自分に!」
「綺羅星ミヤビ。現在、穴、残り七。所要時間、一穴あたり十二秒」
エルザが、真顔で時間を計っていた。
「……数えてないで、手伝ってくださいまし!」
「了解しました。灰村瓊心、後ろを向いてください」
俺は、壁のほうを向いた。
壁の向こうで、針の音と、ミヤビの「ひゃっ」という声が、交互に聞こえた。
三分後。
「……もう、よろしいですわ」
振り返ると、肌着の穴は、全部、ていねいな刺繍で塞がれていた。
ただの縫い目じゃない。
小さな花の形だった。
八つの穴が、八つの花になっていた。
ミヤビは、真っ赤な顔で、腕を組んで、そっぽを向いた。
「……責任を、取っていただきますわ」
「何のだよ」
「この肌着をお召しになっていた、灰村さんの責任ですわ。穴を、八つも、あけたまま」
それから、ほんの小さな声で。
「……本日を、『灰村さんの肌着を、着た日』として、覚えておきますわ。……ひどい一日でしたけれど。最後に、ひとつくらい、笑える日付が、ほしかったのですもの」
床下から、カナの声がした。
「穴、ゼロ。花、八つ」
エルザが、小さく付け足した。
「記録します。綺羅星ミヤビが、本日、初めて、ちゃんと笑いました」
☆☆☆
そのあとは、誰も、寝なかった。
ミヤビは、ランプの明かりの下に座って、膝の上に、変装に使っていた灰色の外套を広げていた。
手には、針と、金の糸。
「わたくしに残ったのは、刺繍の道具箱と、この外套と、このワンピースだけ。……でしたら、使い道は、ひとつですわ」
はさみが、外套の布を、迷いなく切っていく。
乾いたワンピースの裾も、膝の上で、まっすぐに切りそろえられた。
「灰村さんに、まともなお召し物を。花の刺繍の肌着だけで、わたくしの隣を歩かれては困りますもの」
ミヤビの手が、休みなく動いていた。
泣かないために、手を動かしている。
そういう手つきだった。
エルザは、ミヤビの隣で、黙って糸を通す役をやっていた。
カナは、窓に空き缶を並べて、明かりが外に漏れないようにしていた。
朝の光が、窓から差しこんだころ。
ミヤビは、針を置いた。
いつのまにか、ワンピースに着替えていた。
「……できましたわ」
灰色の、短い上着だった。
外套の厚手の布を、体に沿うように仕立て直してある。
襟は立ち気味で、袖口は折り返し。
下層区のどこにもない、でも下層区で着ても浮かない、絶妙な形だった。
胸もとに、金の糸で、一文字。
『瓊』
「玉、という意味の字ですってね。ルビさんが、読めた字。灰村さんの、お名前の字。……この街で、いちばん、価値のある字ですわ」
裏地は、ミヤビのワンピースの、生成りの布だった。その裏地の、心臓のあたりに、小さな小さな刺繍があった。
外からは、絶対に見えない場所に。
『許してちょんまげ』
「……これ」
「言えない言葉は、縫えばいいのですわ」
ミヤビは、針山を、ぎゅっと握った。
「声に出さなければ、ロゴスにも、校閲局にも、誰にも、消されませんもの。……おばあさまの言葉は、ここで、ずっと、生きていてもらいますわ」
俺は、上着に袖を通した。
肩が、ぴったり合っていた。
昨日の、あの数十秒の採寸だけで。
「……似合っています。記録します。……とても、です」
エルザが、言った。
床下から、カナが首を出した。
「いい服」
ミヤビは、それを聞いて、ふにゃっと笑った。
そのまま、針山を握ったまま、床の上で、ことんと眠ってしまった。
エルザが、自分の毛布を、そっとかけた。
戸の外で、ドローンの羽音がした。
小さな包みが、ぽとりと、戸口に落とされた。
きれいに洗われて、たたまれた、俺のジャージだった。
胸の「綺羅星」が、朝日に光っていた。
ドローンの腹のスピーカーから、やわらかい声が流れた。
『お借りしたものを、お返しいたします。……洗濯は、三回いたしましたわ』
少しの間。
『それと、ご報告を。本日付けで、わたしは、元綺羅星家三女の「回収」を、命じられました』
声は、いつもより、少しだけ、硬かった。
『――白妙ユキノ』
最後までお読みいただきありがとうございました。
よろしければ、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。




