許してちょんまげ【中盤】
翌朝。
保管所までの道で、ミヤビは、ずっと口の中で何かを練習していた。
「ごきげんよう、おばあさま。……ちがいますわね。おひさしぶりです、おばあさま。……これも、ちがう。ただいま、ですわ? いえ、わたくし、帰ってきたわけでは……」
「いっそ、全部言えば」
「全部言ったら、面会時間が終わってしまいますわ」
途中で、路地の石垣のすきまに咲いていた、小さな黄色い花を、一輪だけ摘んだ。
「保管所は、持ちこみ禁止だぞ」
「存じておりますわ。灰村さんの、パンと同じですもの。……見せるだけ。それでも、いいのでしょう?」
「……ああ。それでいい」
「灰村さんは、毎週、こんな気持ちで、ここに来ていらっしゃるのね」
ミヤビは、窓のない建物を見上げた。
「五年も」
俺は、答えなかった。
答えなくても、ミヤビには、わかっているみたいだった。
門の前で、エルザが、足を止めた。
「私は、ここで待ちます」
「なんでだよ」
「……規定です」
エルザは、門の上の四角い窓を見上げていた。
いつものまっすぐな目なのに、どこか、焦点が合っていなかった。
「誤字になった元治安官は、収容施設への立ち入りが、制限されています」
本当かどうか、俺には、わからなかった。
床下からついてきたカナが、エルザの横に立った。
「私も、待つ。人混み、苦手」
カナは、エルザの横顔を、じっと見ていた。何も聞かなかった。
☆☆☆
保管所の面会室は、いつ来ても、消毒液と、何もないにおいがする。
ミヤビは、入り口で、一度だけ、深呼吸をした。
それから、背筋を伸ばして、中へ入った。
いちばん奥のテーブルに、その人は座っていた。
白い髪を、きちんと結い上げた、小柄なおばあさん。灰色の作業着の袖口が、ていねいに、折り返されていた。
保管所の誰も、そんなことはしない。
たぶん、体が覚えているんだろう。
背筋が、ぴんと、伸びていた。ミヤビと、同じ伸び方だった。
「……おばあさま」
ミヤビの声が、かすれた。
「綺羅星シズヱ」
職員が、名簿を読み上げた。
「はい」
澄んだ、やわらかい声だった。
ミヤビは、テーブルの向かいに座った。
膝の上で、手を握ったり開いたりしていた。
何を言えばいいのか、わからないみたいに。
練習した挨拶は、ひとつも出てこなかった。
「ミヤビ、ですわ。……三女の、ミヤビです」
「はい」
ミヤビは、握っていた黄色い花を、テーブルの上に、そっと差し出した。
手は放さない。見せるだけ。
おばあさんの目が、花のほうに、ゆっくり動いた。
しばらく、そのまま、花を見ていた。
「石垣のすきまに、咲いておりましたの。下層区にも、お花は、ありますのよ」
「はい」
「六年ぶり、ですわね。……わたくし、大きくなりましたでしょう」
「はい」
「おばあさまの日記、毎日、読んでおりましたの。モーレツとか、チョベリグとか。……それで、わたくし、ちょっとだけ、下層区で、有名になりましたのよ。きゃああですわーって叫ぶ、変なお嬢様、って」
「はい」
ミヤビは、笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「……わたくしのこと、覚えていらっしゃいますか」
「はい」
「本当に? ほかの方にも、そうお答えになるのでしょう?」
おばあさんは、少しだけ、間をおいた。
「……いいえ」
ミヤビの肩が、跳ねた。
「いいえ、って……ほかの方には、言わない、ってことですの……?」
「はい」
ミヤビは、両手で口を押さえた。
しばらく、そのままだった。
「……日記を書いたこと、後悔して、いらっしゃいますか」
「いいえ」
はっきりした声だった。
「わたくしが、読んでいたことは。……知っていらしたの?」
「はい」
「怒って、いらっしゃいます?」
「いいえ」
ミヤビの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
上層区の令嬢は、人前で泣かない。
そう教えられて育ったはずの女が、保管所の面会室で、声を殺して泣いていた。
おばあさんは、ただ、背筋を伸ばして、それを見ていた。
手を伸ばすことは、しなかった。
たぶん、できないのだ。
そういう命令を、チップに書かれていない。
☆☆☆
俺の隣のテーブルでは、ハナが座っていた。
「よう、ハナ。今日は、友だちを連れてきた。……友だちのばあちゃんも、ここにいたんだ」
「はい」
いつもの、少しだけ弾む「はい」。
ミヤビが、涙をふいて、こっちを見た。
それから、立ち上がって、ハナのテーブルのそばまで来た。
上層区式の、深いお辞儀をした。
「はじめまして。綺羅星――いえ。ミヤビと、申します。お兄さまには、いつも、お世話になっております。……昨日も、少々、お世話になりすぎましたけれど」
「おい」
「はい」
「……かわいらしい、お声ですわ」
ミヤビは、俺のほうを向いて、くしゃくしゃの顔で笑った。
「灰村さん。妹さんの『はい』、少し弾みましたわね」
「……わかるのか」
「わかりますわ。わたくしも、今、同じ『はい』を、聞きましたもの」
面会の終わりを告げるブザーが鳴った。
ミヤビは、おばあさんのテーブルに戻って、もう一度、深く頭を下げた。
「来週も、参りますわ。お花を持って。……毎週、参ります」
おばあさんは、背筋を伸ばしたまま、答えた。
「了解しました」
ミヤビは、顔を上げて、少しだけ笑った。
「……小さいころから、わたくし、何をお願いしても、おばあさまに叱られてばかりでしたのに。初めて、了解していただけましたわ」
笑いながら、また、涙がこぼれていた。
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