許してちょんまげ【前半】
「ごきげんよう、下層区の皆さま」
ミヤビが路地に現れたのは、シズカの知らせから半日たった、昼過ぎだった。
変装の外套は、着ていた。
その下は、白と金のスーツじゃなかった。
ふつうの、薄い生成りのワンピース。
裾が、泥で汚れていた。
両手で、小さな布の包みを抱えている。
「本日より、わたくしも、下層区の皆さまの、お仲間ですわ」
ミヤビは、胸を張った。
張った胸の前で、包みを握る指が、白くなっていた。
「……スコアは」
「二百八十八」
ミヤビは、笑った。上層区で、いちばんうまい笑い方だった。
「九百三十一から、一晩で。大校正前の紙の日記を、所持していた罪。……お姉さまがたは、手際がよろしいの」
「ミヤビ」
「スーツも、お部屋も、刺繍の道具箱以外は、全部、取り上げられましたわ。綺羅星の名前も。……でも、平気ですのよ。わたくし、もともと、三女ですもの。いてもいなくても――」
声が、そこで、ぷつんと切れた。
ミヤビは、口を開けたまま、しばらく動かなかった。それから、ゆっくり、地面にしゃがみこんだ。
「……ごめんなさい。少しだけ、座らせてくださいまし」
路地の奥から、タクトが、とことこと走ってきた。自分が座っていた木箱を、両手で抱えて。
「ミヤビねえちゃん。これ」
ミヤビは、木箱を見て、タクトを見た。
「……よろしいの?」
「いい。おれの席だけど、いい」
ミヤビは、木箱に腰をおろした。
ワンピースの裾を整える手つきだけは、上層区のままだった。
タクトは、それを見届けると、ラジ爺に呼ばれて、路地の奥へ帰っていった。
「昨日の夜、お屋敷の大広間に、呼ばれましたの」
ミヤビは、遠くを見たまま、言った。
「お姉さまがたが、お二人並んで、紅茶を飲んでいらっしゃいました。わたくしの分のカップは、ありませんでした」
そこまで言って、ミヤビは、くすっと笑った。
「長女のお姉さまが、日記を一枚ずつ破いて、暖炉にくべながら、おっしゃいましたわ。『下層区に通う妹など、最初からいなかったことにします』って」
☆☆☆
床の上で、エルザが、空き缶にお湯を注いでいた。
「下層区の標準的な、おもてなしです」
「……お湯ですわね」
「お湯です」
ミヤビは、缶を両手で包んで、少しだけ笑った。
床板が、五センチ持ち上がった。
カナが、缶コーヒーを一本、ミヤビの前に置いた。
甘いやつだった。
「お湯より、こっちのほうが、元気出る」
カナは、それだけ言って、床板を閉めた。
閉める前に、ちらりとミヤビの包みを見ていた。
ミヤビは、包みを、そっと開いた。
中には、焼け焦げた紙の切れ端が、一枚だけ入っていた。
「お姉さまがたが、日記を、暖炉で燃やしましたの。……これだけ、火の中から、拾いましたわ」
端の黒くなった紙に、細い万年筆の字が、ひとことだけ残っていた。
『許してちょんまげ』
「……おばあさまの、字ですわ。日記の、最後のページ。小さいころから、何十回も読みましたのに。この言葉だけ、どういう意味なのか、ずっと、わからなかった」
「昭和の、ふざけた謝り方だ。ごめん、を、冗談にまぜて言う。本気で謝ると、相手が泣くとき、とかにな」
「……謝罪、ですの。おばあさまは、何を、謝っていらしたのかしら」
それから、ミヤビは、顔を上げた。
「もうひとつ、お話ししなければいけないことがありますの」
声が、少しだけ、震えた。
「おばあさまは、六年前に、ご病気で亡くなったと、聞かされていました。……でも、ちがいましたの。昨日、お姉さまがたが、教えてくださいました。わたくしを、追い出すときに。『あなたも、おばあさまと同じになるのよ』って」
「同じ、って」
「おばあさまは、校正されたのですって。家で、うっかり、昔の言葉を口にして」
ミヤビは、北のほうを見た。
窓のない、四角い建物があるほうを。
「下層区の北の、保管所に、いらっしゃるそうですわ。……六年間。わたくし、空っぽのお墓に、毎月、お花を持っていっておりましたの」
☆☆☆
誰も、すぐには何も言えなかった。
沈黙を破ったのは、ミヤビ本人だった。
「……ところで、灰村さん」
「なんだ」
「その、お召し物は、なんですの」
俺は、自分の胸を見下ろした。
ジャージは、ユキノが持っていった。
洗って返すとは言っていたが、まだ返ってこない。
今の俺が着ているのは、ゴミ山で拾った、首のよれた灰色の肌着だった。
「穴が、七つ」
床下から、カナが言った。
「数えた。昨日から、ふたつ増えた」
「数えんな」
「……ひどいですわ」
ミヤビは、こんなときなのに、本気で眉をひそめていた。
仕立て屋の、目だった。
すっと立ち上がった。
外套のポケットから、刺繍の道具箱を出して、中から巻き尺を引っぱり出す。
「動かないでくださいまし。採寸いたします」
「今かよ」
「今ですわ。……何かしていないと、わたくし、たぶん、立っていられませんもの」
そう言われたら、断れなかった。
ミヤビは、俺の背中に回った。
巻き尺が、肩から肩へ渡される。
それから、正面へ。腕を回して、胸まわり。
近い。
泥のついた薄いワンピース一枚の体が、俺の胸に、ぴたりと寄った。
巻き尺をきつく引くたびに、やわらかいものが、俺のあばらに、むにっと押しつけられる。
ミヤビの髪から、上層区の、高そうな花の匂いがした。
「胸囲、九十一。……肩幅は――」
ミヤビの指が、巻き尺を押さえようとして、肌着の穴に、すぽっと入った。
俺の、素肌に。
「…………」
「…………」
指が、そのまま、止まった。
ミヤビは、自分の指先を見た。
穴を見た。俺の顔を、見上げた。
真っ赤だった。
「――きゃあああああですわーーっ!? い、今のは、採寸ですわ! 穴が、穴が勝手に、わたくしの指を……!」
「穴のせいにすんな!」
「綺羅星ミヤビ。距離、ゼロ。指の侵入を、確認しました」
エルザが、空き缶を握ったまま、真顔で言った。
「記録しないでくださいまし!」
「……穴、八つになった」
床下から、カナ。
ミヤビの指が抜けた跡が、ほんとうに、少しだけ広がっていた。
……ああ。くそ。
こんな日なのに、俺は、今のこいつの顔が、どうしようもなく好きだった。
何もかもなくして、それでも澄まそうとしていた顔が、指一本ぶんの事故で、全部ほどける瞬間が。
口には、出さない。今日は、出さない。
「……明日は、週に一度の面会日だ」
俺は、八つ目の穴を指で押さえたまま、言った。
「一緒に、行くか」
ミヤビは、巻き尺を握りしめたまま、しばらく黙っていた。
それから、小さく、うなずいた。
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